ルドロジー研究 2009年3月号
2009年 1月30日
高橋志行(godandgolem.inc*at*gmail.com)
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本論稿の目的は、読者諸氏に「ルドロジー」と呼ばれる新たな学問の潮流を紹介しつつ、ゲームを語ることばについての一定の視座を提供することである。
まずは「ルドロジー」について説明したい。これは、フィンランドの研究者であるゴンザロ・フラスカ(Frasca 1999)が提唱した、遊びやゲームを専門に取り扱う学問の潮流を指す。20世紀末まで、遊びやゲームをめぐる人文学的な考察の多くは、主に文芸批評、つまり物語論(ナラトロジー)的な立場から行われることが多かった。それに対してフラスカは、あくまでゲーム「それ自体独立したもの」として研究するアプローチ(Ludology)の重要性を強調したのだ。
2008年現在、DiGRA(デジタルゲーム学会)をはじめとするさまざまなところで、ルドロジーの成果が報告されている。そして筆者は、このルドロジーの視角が、単にゲームを論じるという目的にとどまらず、ゲームの価値(文学的にであれ、それ以外の見地からであれ)を論じたいと願う文芸批評家にとっても、新たなツールとなりえるのではないかと考えているのである。
今回はそのルドロジーの中でもとりわけ重要なトピックのひとつ、ゲームの定義論について紹介する。
まずは先行研究の紹介からはじめたい。
皆さんは、次のような書籍・論文を見かけたことがあるだろうか。
遊び論に触れたことがある方には、前の二つはなじみがあるかもしれない。実際、ヨハン・ホイジンガとロジェ・カイヨワの著作は、ルドロジー研究者にとっても重要な古典と見なされており、彼らの批判的検討から始まる遊び論は数多い。そして後者二つも、著名なゲームデザイナーによって書かれた説得的なゲーム論として、沢山の人に読まれ、言及されてきた。(*1)
しかしながら、これ以外にも多数の重要な遊び論があることは、日本ではあまり知られていないようである。たとえば近年の例では、サレン&ジマーマンによる Rules of Play (Salen & Zimmerman 2004)や、同じ二人によって編纂されたルドロジー読本 The Game Design Reader(Salen & Zimmerman eds. 2005)を読むだけでも、遊びやゲームの領域には、二桁では数え切れないほどの論者・研究者がいる(いた)ことがわかる。特にGDRは、ここ一世紀の主要な遊び論をフォローすることができる、非常に質の高い内容となっている。
ところが、国内のアマチュアゲーム論壇では、先に述べた4つの定義論ばかりが取り上げられ、そこから建設的な発展をみない傾向がある。これは海外のゲーム研究の成果が邦訳されていないことが直接の原因となっているのかもしれないが、もし仮に「これらの文献がたまたまネットで(あるいは文庫で安価に)手に入れやすいから」という理由だけで、この状況が生まれているのだとすれば、いささか残念なものを感じる。
ところで、先に取り上げた4つの遊び/ゲーム論は、ある共通する特徴がある。それは、どれもゲームの形式的な特徴から定義を引き出しているということだ。
たとえばカイヨワは、ホイジンガの「遊び」定義を基本的にはほぼそのまま受けついだ上で、ルールの厳しさや遊びの種類に応じて、「ルドゥス」や「アゴン」といった様々な術語を定義した。クロフォードは、現代にある「遊び」のうち、最新の一分野としてコンピュータゲームを位置づけ、さらにその具体的な種類を豊富に論じ分けている。コスティキャンもまた、あらゆるゲームに共通すると思われる要素を列挙し、その中心となる要素をdecision-making(意志決定)に求めた。(*2)
だが、そのような客観的定義・分類作業から、遊びやゲームについて実際にどれだけのことを論じることができるだろうか。ここで一つの事例として、「三目並べ(Tic-tac-toe)」というゲームについて考えてみたい。
「三目並べ」を子どもの頃に遊んだことがあるという人は多いだろう。縦横に2本ずつの線を引き、9つの領域をつくる。そして2人のプレーヤーが互いにマス目に○×を描き、どちらが先に3つ並べられるかを競うというゲームだ。
ところで、三目並べには、子どもでも簡単に気づける構造的欠陥がある。このゲームには「必ず引き分けに持ち込む」戦略が存在するのだ。そしてプレーヤー同士がひとたびそれに気づいてしまいさえすれば、百戦百引分けという事態も簡単に起こせてしまう。
では、この「三目並べ」はゲームではないのだろうか? いや、その言い方は適切ではない。なぜなら、引き分けに持ち込む戦略を知らない子供にとっては、これはまがりなりにも、真面目に取り組める「ゲーム」として機能するのだから。(*3)
ならば、「三目並べ」はゲームではなく、遊び(この場合の「遊び」とは、仮に「子供だまし」的な意味合いを持つものとする)に過ぎないのか? それもまた違う。このゲームには、れっきとしたルールがあり、競う相手もいて、勝利条件がある。ここまでしっかりした形式を持っていてなお単なる「遊び」に過ぎないというのなら、これまで俗に「クソゲー」と呼ばれてきた多くのゲームもまた、三目並べと同じく「遊び」ということになってしまう。しかし、クソゲーと子どもの遊びを同義に見る必然性は薄く、このような文脈で「遊び」を意味づけることにはほとんど意味がない(ここで、「ゲームが有価値で遊びが無価値」といった区分けは根拠が薄く、非生産的な分類であることを強調しておきたい)。
以上のことを踏まえつつ、カイヨワの用語を適用するならば、「三目並べ」は明らかにルドゥス(規則志向が強い遊び)だろう。
しかし、このような結論が得られたところで、依然として、三目並べの構造的欠陥と、そこからくるゲームとしての不備については、うまく論じることができない。カイヨワやクロフォード、コスティキャンのようなゲームの形式的定義から出発しても、このようなボーダーラインケースにうまく対応することができないのである。(*4)
どうやら、形式的定義だけで遊びやゲームを語ろうとすることには、一定の限界があるようだ。「三目並べがゲームであること」がわかっても、それだけでは「三目並べがおもしろいのかどうか」をうまく分析することができないのだから。
もし、私たちが「何がゲームなのか」を知りたいわけではなく、「何がよいゲームなのか」を知りたいのであれば、私たちはいったんゲームの客観的(objective)な定義から離れ、ゲームを受容する主体にも着目する必要が出てくる。その代表的な議論として、ラフ・コスターの〈チャンク〉をめぐる考察を取り上げたい。
ラフ・コスターは『ウルティマ・オンライン』や『スターウォーズ・ギャラクシー』など、多くのMUD(Multi Users Dungeons)やMMORPG開発に携わってきたゲームデザイナーである。彼は『「おもしろい」のゲームデザイン』(Koster 2004)で、カイヨワやクロフォードなどの先行するゲーム定義論を取り上げつつも、これまでに多くの遊び研究者たちが試みてきた形式的な定義を離れ、認知科学的なアプローチからゲームを定義しようとした。(*5)
コスターは、前段で取り上げたゲームの形式論のように、日常の行為や遊び、そして形式の整ったゲームを区別しようとはしない。そうではなく、脳のパターンが認識する作業のうち、「楽しい学習経験」を誘うものが、私たちにとってゲームとして認識されるものだと主張する。
このようなパターンを彼は〈チャンク〉と呼ぶ。そして、パターンを覚え込む作業(=チャンク化)の快楽こそが、ゲームのおもしろさをもたらすものであると考えているのだ。
ゲームとは、特別なものでもあり、独特のものでもあります。脳がよく味わえるよう濃縮したチャンクなのです。〔中略〕どのように見せかけるかは、ゲーム自体の違いではなく、遊びの形式にあるのです。
ゲームデザイナーにとって、助け船を出す誘導目標が提示しやすいという理由から、こういった区別が役立つと思うのかもしれません。おそらく、これが言葉だけでは「遊び」と「ゲーム」と「運動」を、なかなか的確に区別出来ない理由なのです。(Koster 2004=2004: 40)
コスターの議論がこれで終われば、単に「主観的なおもしろさ」を述べた、平凡な意見だったかもしれない。だが、コスターの議論がさらに価値を持つのは、この先にある。彼は「おもしろさ」の基礎となる〈チャンク〉の両端に、2通りの「つまらなさ」を取り上げたのである。彼は、ゲームの学習過程には3つの段階があると考えた。
- 1.〈ノイズ〉(noise):
- プレーヤーが「学習可能なパターン」として対象を認識できない段階
- 2.〈チャンク〉(chunk):
- プレーヤーが「学習可能なパターン」を認識し、〈チャンク化〉を試みる段階
- 3.〈グロック〉(grok):
- プレーヤーが「学習可能なパターン」をすべて学習し終え、退屈になってしまった段階
つまりコスターは「つまらない(わからない))」→「おもしろい(学びたい)」→「つまらない(学び終えた)」という三段階が、ゲームの評価プロセスの一サイクルであると考えているのである。
より具体的な議論はコスターの著作に委ねるとして、ここで私が強調しておきたいのは、次の2点である。1つ目。ゲームの「つまらなさ」には、〈ノイズ〉と〈グロック〉という二通りの段階があるということ。そして2つ目。コスターの考える「ゲームのおもしろさ」とは、常にその2つの、異なる意味をもつ「つまらなさ」に挟まれた、「学習の過程」そのものであるということだ。
だが、コスターのモデルにも問題がないわけではない。ここからの記述は、コスターの議論を受けた、筆者自身の批判的考察となる。
コスターの先の三段階モデルを、図にしてみよう。(図1)(*6)
X軸は「プレーヤーのパターン理解度」であり、Y軸が「パターンの複雑さ」である。プレーヤーの理解度(X軸)に対して対象(Y軸)が複雑すぎる場合に「ごめん、難しすぎてつまらない」という評価が発生する(ノイズ)。そこから、対象の法則をある程度理解し、その中でうまく適応するという課題が発生する(チャンク)。 そして最後に、パターン学習が終了すると(*7)、ゲームに飽きてしまう(グロック)――以上の過程を図1に合わせて解説したのが、図2である。(図2)
ここでコスターの subjective なゲームモデルに、重要な視点が欠けていることを指摘したい。それは、私たちがいつチャンク化との相互作用を終え、グロックに至るのかという判定基準が論じられていないことである。
この世には、平均的な消費者なら一定のところで止めてしまうゲームを、何年も遊びこむ人がいる。彼らがコスターの言うとおり学習を続けているというのなら、彼らが学習し続けているものは何なのだろうか? なぜ他の人は、そのような学習を続けず、ゲームをやめてしまったのだろうか? この個人差についてどう考えるべきか、という課題設定は成り立ちうるだろう。
このような疑問を立てた上で、筆者は次のように考える。あるゲームを遊び込んだプレーヤーは、ただ与えられたパターンを学習するだけではなく、時にプレイ経験を元手に、新たな学習対象を創造してもいるのではないか。(*8)
そして、その創造的プレイにも、二種類の方向性がありうることを指摘したい。ひとつは、「A.与えられたパターンのうち、いくつかの要素を組み替え、それまでとは異なる傾向の遊びへと向かう方向性」であり、もうひとつは、「B.与えられたパターンの規則を守りつつ、それをより複雑化・高度化する方向性」である。この二種類の営みを、筆者はそれぞれ、「A.ゲームの変容(transformation)」「B.ゲームの再設計(re-design)」とにそれぞれ区別する。
あるプレーヤーは、ゲームのコンセプトとは直接関係のないものごと(キャラ萌え、おまけ要素、外部から持ち込んだ想像力など)をもとに、提供されたものとはまったく別の遊びをこしらえはじめるかもしれない(A.ゲームの変容、図3)。
これは、対面的な遊びだけでなく、ニコニコ動画や2ちゃんねるの安価絵スレ、さらには同人即売会などの、さまざまな意味解釈行為、そしてそこに見出される意味のめまぐるしい変転を楽しむものも含まれる。そこでは意味づけられた作品それ自体よりも、意味づけてゆくその逸脱的な行為がゆるされる環境がより重視される。
それに対して、ほかのあるプレーヤーは、そのゲームで学習したパターンに愛着を感じて、より複雑かつ高度な秩序を求めるかもしれない。与えられたパターンの規則を解釈し、分析し、より自分(たち)が取り組みたい課題に適合するよう、パターンの組み替え・編集を試みる。これは〈変容〉よりも元のパターンは保存されやすいが、そのパターンは過激なまでに先鋭化されることが多い。時には、もとのパターンとは異なるものと認識されることも少なくない(B.ゲームの再設計、図4)。
ところで、ゲームにおいて学習するパターンに遊び手が自ら手を入れるということは、ゲームは学習するだけでなく、学習した対象に介入していくという試みでもある。とすれば、それは単にコスターの学習モデルでは捉えきれない、objective な現象が観察されるということだ。
そこで再び、この論稿のはじめの方で批判したゲームの形式論的アプローチが見直されることになる。たとえばカイヨワの術語である〈パイディア〉と〈ルドゥス〉の関係は、実は〈変容〉と〈再設計〉と多くの共通点を含んでいる(*9)。そしてこのような視点は、ゲームの批評理論としてだけでなく、文芸を通じた体験を語る文芸批評(解釈学・受容理論など)、さらには、環境管理・規律訓練・アーキテクチャといった現代思想における重要な概念とも接近して来ると思われる。(*10)
以上、ゲームの価値を論じるための定義論を紹介してきた。紙面の都合で抽象論に終始してしまった感があるかもしれない。しかし、当初の目的(ルドロジーという方法論の紹介)はひとまず果たされたのではないだろうか。
あなた自身が感じるゲームの「つまらない/おもしろい」をより説得的なことばにパラフレーズしたいと思う時、少しでもこの小論が役に立てば幸いである。
初出:筑波批評社編,2008,『筑波批評 2008年秋号』(同人出版物).
馬場秀和 ,1996-7,「馬場秀和のマスターリング講座」『馬場秀和ライブラリ』
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Costikyan, Greg, 1994, "I Have No Words & I Must Design," Interactive Fantasy. (=1995,馬場秀和ほか訳「言葉ではなく、デザインのみが、ゲームを語ってくれる――コスティキャンのゲーム論」)
(http://www004.upp.so-net.ne.jp/babahide/library/design_j.html)
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Crawford, Chris, [1982]1997, The Art of Computer Game Design.(=2000,Shino・OJほか訳「クロフォードのゲームデザイン論」.)(http://www.scoopsrpg.com/contents/special/acgd/Coverpagej.html)
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(英文:http://www.ludology.org/articles/ludology.htm)
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