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The Last Dark Art: Exploring the Gaming Aesthetic

その3:君のパラダイムを見せてもらおうか。そして賭金に25セント追加だ。

Three: I'll See Your Paradigms And Raise You a Quarter

ダン・レイマン=ケネディー
Dan Layman-Kennedy

2002年12月18日

訳:トモス (tomosakinas*at*hotmail.com)

現実とはもろくはかないものだ、と人は言う。

正にその通りだ。ちょっと焦点をずらしただけで、人は、自分がいる世界の様子がまるで違ったものになるのを感じることがある。ニール・ガイマンの魔法の書 (Neil Gaiman's Books of Magic)の中でジョン・コンスタンチン(John Constantine)が親切にも指摘してくれていたように、それは歩道から車道へ一歩踏み出すようなちょっとした、それでいて根本的な変化のこともある:景色はそれほど変わらないけれども、今やいつトラックに轢かれてもおかしくない状況にある。

その印象的なメタファーを念頭におきつつ、今月のトピックについて話してみよう。それはメタファーと詩の領域内のあらゆることに関係があり、また、ありがたいことに、僕らが不健全な形で逃避しているといわれることがある例の「現実」には余り関係がない。そんな現実がそもそも存在していると言えるとしての話だが。

「パラダイム」というのは、一種のモデルで、概念や前提のセットであり、特定の集団やコミュニティーが共有している、現実についての理解を規定するのに使われる。これは90年代の企業文化の中でさんざん使われるようになった例の一群の言葉のひとつで、インフラストラクチャー(基盤)とか(神々よお助けを)シナジーなどの同類だ。結果としてそうした言葉は意味もインパクトもほとんどなくなってしまったのだが、ロールプレイングのアートを考えるためには再訪してみるのも有用だ。何故ならゲームもまた、概念や前提のセットで、一定の種類の現実をモデル化した哲学的なシステムだと言えるし、ゲームをプレイするためにプレイヤー達がテーブルを囲んでダイス袋を開いた時には、パラダイムの面ではみんなが同じものを共有していることが重要で、そうでなければ素晴らしい物語を共同で語る代わりに議論をして過ごすはめになってしまうからだ。

「一貫性、私が要求するのはそれだけだ。」
ローゼンクランツ、トム・ストッパード監督「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」より

まず最初に、邪魔物をとりのぞいておこう。現実のシミュレーション、最も凡庸な意味でのそれは、ゲームの世界ではある時点で禁止されることになる。「シミュレーション主義」や詳細にわたる「現実性チェック」を標榜するゲームであってもそうなのだということを理解して欲しい。これらのゲームが反映している、あるいは目指しているのは「現実」(リアリティー)ではなくて「現実感」(ヴァーシミリテュード)だ−つまり、それらしい感じがするかであって、現実と一致するかどうかとは全く別物なのだ。ひとつの特徴として、現実感は移ろいやすく、個人的なもので、一般に考えられているよりもはるかにその集団の趣味や前提に依存している。RPGは現実を再現することにこだわりすぎてはいないし、またそうなるべきでもない。もちろん、あるアイディアやテーマを強調するために、われわれが馴染んでいる現実といろいろ共通点がある現実感を扱うのはいいのだが。

現実感は、ゲーム内の現実の有用な尺度であり、その姉妹概念である「一貫性」と密接に関連している。この2つの概念は、満足できるプレイ経験を生み出す条件を考える上で、また架空世界の創造一般について考える上で、非常に優れたものだ。非常に数多くの「現実」的なきまりに違反していても、一貫した法則に従った世界になっていれば、その違反は許容しうるし、多かれ少なかれ「それらしい」ものに留まる− マンガのスーパーヒーローの世界を見てみるといい。繰り返しになるが、ロールプレイングゲームは、現実の人生をシミュレートするためにデザインされているものではない。もしこう言ってよければ、物語や架空の現実をシミュレートするためにデザインされているのだ。決定的な影響力を持つのは、プレイヤー達がどんな虚構に没入したいと思うかだ。

ゲームのパラダイムを支える2つの大きな柱はまた、ゲームの2大構成要素でもある。システムと背景世界だ。前者はゲームの仕組みに関するものであり、後者はスタイルに関するものだが、両者は非常に密接につながっていて、ロールプレイングの経験に作用するメタファーを構成している。

システム − ゲームがゲームとして機能する仕組み、最も基本的なレベルでは「何ができるの?」という質問に対する答えに相当するもの − はパラダイムを作ることも壊すこともできる。これはプレイヤー達が前もって持っている期待による。グループの持っている前提と、システムに備わっている前提とが衝突する時には、パラダイムの不調和があり、何らかの対策が必要になる − トールキンを読んでからダンジョンズ&ドラゴンズを始める人に聞いてみるといい(「魔法使いが剣を使えないってそれどういうこと?」)。その場合、物事をどちらかの方向に合わせる必要がある − ルールを変更してプレイヤーのイメージに合わせるか、ルールが提供するパラダイムをみんなが飲み込んで受け入れるか。どちらの方法にも困難がともなう。システムの中には非常に緻密に設計されたものがあり、ひとつの糸をほどくと全体がばらばらになってしまうようなものもある。一方で、多くのプレイヤーは、架空世界について自分達が持っている前提と矛盾するようなルールで遊んでもそれほど楽しくない。けれども一般則としては、プレイヤーの望み通りの選択をすることが、システムを神聖なものとして扱うよりも安全な対処法だと僕は思う。もしもシステムがそんなに簡単に解体してしまうならば、そもそもそのシステムはそれほど優れたものではなかったということなのだろう − というのも、そのシステムは様々なレベルで現実感に反しているからで、少々修正が必要だろう。(あるいはみんなのスタイルにあった別のシステムに切り換えるか。)

このような理由から「汎用」システムを嫌う多くのプレイヤーがいる、ということについても一言述べておくべきだろう。汎用システムは特定の設定に適用するために余りにも多くの調整を必要とする。そして、万能であろうとして、かえってどのような世界(パラダイム)にもぴったりフィットしたものではない感じがしてしまう代物になっているのだ。個人的には僕はそういうタイプのプレイヤーではないことを告白しておこう。ジャンルの掟を思うように変えてみたり、何でも自分でやろうという日曜大工的な発想であれこれいじったりするのが僕は好きで、汎用システムの敵にはまわれない。ただ、汎用システムを批判する人々は一考に値する優れた指摘をしているし、それはどのシステムで遊ぶかを選ぶ際にも重要だ。けれども、最も重要な問いは、システムが物語をサポートするか、物語の行く手を阻むか、という点だと思う。個人的には、本当に必要な時以外には余り目立たない仕組みになっているシステムが僕は好みだ。けれども(僕とは志向が違う)計算や戦略的思考のネタをシステムに求めるゲーマーにも、同じアドバイスはあてはまるだろう。そのゲームのシステムは、物語にとって重要なメタファーを反映しているだろうか、それともそれと齟齬をきたすだろうか? もしもその背景世界が、明確に定義された職業と階層の概念に基づいているのでなければ、クラスとレベルに基づいたシステムは、不自然なものに感じるだろう。もしも曖昧さのなさとアーキタイプに強く依存している世界であれば、スキルシステムに基づいてプレイヤーに自由度を与えることは得策ではないかも知れない。

世界設定は、システムにとっては基礎のようなものだ − あるいは広いカンバスのようなもので、そのシステムが提供するツールを使って、そこに絵が描かれるのだ。世界設定は多くの要素を含む:ジャンル、世界、スタイル、トーン。ある意味では、世界設定はシステムが適切なものかどうかを決める際の尺度になる。もしもシステムがパラダイムの抽象的骨組みの表現だとしたら、世界設定は詩的な肉付け、共有されるゲーム内の現実を見て取ることができるようなものだ。

繰り返しになるけれども、世界設定がプレイヤーの持っている前提と違った前提を提供する場合には、摩擦が生じる。言うまでもないことだけれども、趣味の問題が大きな役割を果たすのはこの局面においてだ:「SF」が向こう見ずの冒険野郎のスペース・オペラのことだという前提を持っているグループは、各人が自分の快適空間から踏み出してみたいというのでない限りは、容赦のないハードSF系の世界設定には近づかないべきだ。同じことはジャンル以外の要素についても言えることだ。ユーモラスなトーンとシリアスなトーン。映画的なスタイルと「リアリズム」的なスタイル。ゲームを通じて共有される現実と、それを舞台にする物語のために、こうした全てのことは、決定されなければならない。これらの要素は、(テーブルトークで何が許されているかということを別にしても)、ゲーム世界で何が可能かについてのプレイヤーの前提に影響を与えることにもなる。重要なのは、パラダイムは共有された現実になっていなければならず、世界設定の全ての側面について、遊び手みんなの意見が一致していなければならないということだ。そうしないと、プレイ中に、共有されるべきヴィジョンとして予め用意されたはずのものが、うまく描き出せないことになるだろう。こうした事の幾つかはルールブックの中に記述がある − けれども、全ての事について記述があるわけではない。世界設定があらかじめ用意されている場合でもそうだ。あるグループが例えば「ヴァンパイア:ザ・マスカレード」や「クトゥルフの呼び声」のような荒涼とした、暗くて残酷な世界をどんな風に解釈するかは、「正統」なゲームについても、別のグループの解釈とは非常に大きく異なる場合がある。そしてもしグループが正統なプレイを離れてゲームをプレイするとしたら、更に多くの問題ついて何かの措置をとらなければならないのだ。

前に述べた通り、システムと背景世界は非常に密接に結ばれ合っている(というか、そうあるべきだ。もし明らかにそうなっていないとしたら、その時はどちらか一方を再検討するべきだろう)。うまくいく、信じられるパラダイムはこの結合の賜物で、ゲームが最高にうまくいく時には、ちょうど夫婦のように素晴らしくて微妙な相性があるのだ。うまくことを運ぶためのひとつの重要な鍵は下準備だ。もうひとつは、またしても、一貫性だ。後者は言うは易し、行うは難し。ゲーマーは気まぐれなことで有名な人種で、独特の歪んだユーモアのセンスに恵まれていることもしばしば、その両方が組み合わさると、最初に作り出されたムードに反するような脱線につながる。これはこの世の最悪の事態というわけではない。けれども、もしも共有された世界がみんなが非常に集中することができるものであれば、もっと満足のいくような創作をみんなが楽しむということにもなりうるだろう。本当のアートは、4時間目、あるいは3セッション目にも依然として興味深くありつづけるようなパラダイムだ。現実というのはそもそももろくはかないものだあから、ゲーム内現実の雰囲気を助ける初期の決定は、どんなものであれゲームをよくする。

もう一度言っておいてもいいだろう:ロールプレイングゲームは、現実世界の鏡ではない。様々なフィクション、物語内現実の鏡なのだ。フィクションは、ある意味ではみなファンタジーだ − 主観的で二次的な現実を、物語の枠組みとして創り上げるものだ。(そしてフィクションを主観的な現実観から引き離そうとする歴史上の試みのことを思い出して欲しい、たとえば19世紀前半の自然主義演劇のように。それらはほとんど確実に、アートと呼べない出来に終わっているのだ。現実を余りにアートに持ち込み過ぎると厄介なことになることの方が多い。そして、もし何か木製のものをステージに配置する時でも、それが木製のものだということが観客にも見てとれるようにするためには、それらしい塗装をほどこさなければならない、ということを思い出して欲しい。)そのようなわけで、架空の世界は熟慮されるべきものであり、細部への注意と配慮、遊び手達が探求してみようとするテーマやアイディアについての注意深い省察、と共に構築されるべきものだ。それに、一貫性(つまり現実感)への注意も必要だ、ということも言っておかなければならない。RPGはシステムの仕組みと背景設定の結びつきによって、二次的な現実の意図的な創造のための独特のツールを提供する。自分達が長い時間を過ごすことになる世界を創る職人として、ゲーマーはみな、これらのツールを意識的に注視、吟味する義務がある。

来月は、メタゲーミングがうまく行く場合について見てみることにする。いや、ホントに。ではまたこの場でお会いしましょう。


この記事は米国RPGnetの許可に基づき翻訳されたものです。日本語訳については当サイト管理者ben*at*scoopsrpg.comまたは翻訳者まで。記事の内容については本人へ英語で連絡してください。

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