[オリジナルの英文を見る]

The Last Dark Art: Exploring the Gaming Aesthetic

その2:平均律:主題と変奏、ハーモニーと装飾音

Two: The Well-Tempered Cavalier: Themes and Variations, Harmonies and Grace-Notes

ダン・レイマン=ケネディー
Dan Layman-Kennedy

2002年10月23日

訳:トモス(tomosakinas*at*hotmail.com)

ある本当の話:英語の先生をやっている友人が、ある本の主題(テーマ)についてレポートを書くようにという宿題を出したところ、彼女が受け持っているある照れ屋の生徒が授業の後にやって来て、こう言った「K先生、僕はこの本を最後まで読んだんですけど、主題は何も見つかりませんでした。」

間抜けぶりを笑いたくなるような話だが、これはわれわれの多くが感じていることとそれほど大きな差があるわけではない:文学作品は主題が明示されていたらもっとわかりやすそうなものだという感じがするのだ。主題は曖昧で、扱いにくい代物であり、見つけにくいし、不自然さを感じさせないような形で作品の中に織り込むのはもっと難しい−そして、主題があまりにも注意をひきすぎると、逆効果になってしまう危険がある。けれども主題は、物語にとってはプロットとキャラクターと同じくらい重要なものだ、と提唱してみたい。主題は、表層的な物事の下に隠された、物語の本当の意味を明らかにする、あるいは少なくともそのありかを示す。そしてそれ故に、主題はロールプレイングゲームにおいてもある役割を担うことになる−もっともプレイの「本文」部分は主題が何でありうるかについてフィクションよりもずっと少ない手がかりしか提供しないかも知れないが。

RPGにおいてテーマを扱うことはある意味では独自の課題だ。ゲームは、物語の一形態としては、重要な要素が常に理解可能になっているという特徴を持つ。けれども僕はこうも考える。この特徴があるために、ゲームの遊び手がいくつかのアイディアを意図的に追求したい場合にはそれが可能になる、と。特にRPGは、参加者が注意を払っていないと、自然とある主題が成立してしまうことがあることを考えるなら、そう思う(よく成立してしまう主題は、「もしその生物が人間らしく見えず、人間らしく振る舞わないとしたら、その生物は生きるに値しない」というようなものだ)。ゲームのプレイにおいては、鑑賞者は同時に創作者でもあるため、参加者が興味を持っている、あるいは取り組んでみたいと感じるような主題そのものズバリを導入する場合に、ロールプレイングゲームは独特の可能性を持っている(この意味で、ロールプレイングゲームには他のメディアに対する優位性がある。プレイヤー達は主題を解読する代わりに、自由に選ぶことができる。ただ、主題をある文章から汲み取る能力はゲーマーにとって有用なものだ。このことは以下の文ですぐに明らかになるだろう)。

僕はここで、スケールの異なる、ふたつの、相関しているけれども別々の主題について議論してみたい。最初のものは文学的な意味での主題そのものだ:物語に込められているあるアイディアやメッセージのことを指す。ふたつ目は、より正確にはモチーフと呼ばれるべきもので、より大きな主題を指し示すために繰り返されるイメージだ。最初のものは「深層」レベルで作用し、ふたつ目のものは「表層」に位置する、だがこれらは互いに結びついており、お互いに補いあう関係にあり、事前に少し話し合いをしておけば、両者を非常に効果的にゲームで用いることができる。

最初のタイプについて言えば、これは君のお好みのどんな文学作品からでも借りて来ることができる。指輪物語のひとつの重要な主題で、ゲームにも非常にうまく使えるものは「最も力のない者は、力による腐敗からも最も遠い」というものだ。現代のハイ・ファンタジーから例をとれば、ロバート・ジョーダンの「時の車輪」シリーズを貫く主題はこんな風に表現できる。「善良な人々は善良な目的のために悪を為し得るし、またその逆も真である」。明白な主題もあれば(映画ナイトブリード(Nightbreed)の「人間は怪物よりももっと怪物的である」)、より微妙なものもある(ウォッチメン(Watchmen)の「腐敗した世界では全ての道徳観は相対的である」)。ゲームにとってよりやりがいがありそうなものは、例えばサンドマン(Sandman)の「人々は自分で自分の檻をつくる。だがいつでもそれを後にすることができる。」とか、トーマス・リゴッティ(Thomas Ligotti)の短編を貫く「幾重もの幻想の中核には悪意あるコスモスがある」といったアイディアがある。

ある種のゲームは固有のテーマを提案する。クトゥルフの呼び声は「宇宙について知りすぎると、人間の脆弱な心は破壊される」というアイディアを中心にしているように見える。メイジ(Mage)は「この世界の真の性質はごくわずかの人々にしか明かされていない」という主題を暗示する。だが、これらの主題に縛られる必要があるわけではない。つまるところ、地図がその地図の表す土地そのものでないように、ルールブックは、ゲームではない。ルールブックに提示されている背景の説明がプレイヤー達の考え方とそぐわなければ、プレイヤーはそれに束縛される必要はない。多少ルールをいじることが必要になるだろうが、システムに埋め込まれた前提から外れるような遊び方は、興味深いゲームを生み出すこともありうる。クトゥルフの呼び声のキャンペーンが、人間の姿を失った者達に明らかにされるこの世のものならぬ不思議を中心にするかも知れない(そしてたまたまラヴクラフトのある種の主題に忠実になっている)。そしてこれは「調査員が禁じられた伝説を発見し、おぞましい者に遭遇し、もし生き残るとしたら正気を失う」というお馴染みのパターンからの歓迎すべき解放を与える。このような主題を選ぶキーパーは、正気度をめぐるルールを少々書き換えるという課題に直面することになる、だが、彼はまた「正統」なCoCでは決してありえないような、思い出深く、考えさせられるようなゲームをプレイヤーに体験させることにもなるだろう。

ここまで書けばわざわざ言う必要もないだろうが、中心になる主題を選ぶこと(または複数の主題を選ぶこと、もっとも2つか3つ以上の主な主題があると物語のメタファーの明確さが失われてしまう傾向にあるが)は慎重な配慮を必要とする。物語の背後にあるアイディアは、プレイヤー達の興味をひくものでなければならない(そして彼らが問題なく探求できるものでなければならない)。全てのグループが深遠で知的な主題を楽しめるわけではない ?そしてここで、主題は気楽なものでもいいし、そうであっても依然としてゲームをより楽しいものにするためのキーになることができる、ということを指摘することは重要だろう。ライサス(Risus)やトゥーン(Toon)のようなゲームで主題が深遠だったり深刻だったりするべき理由は何もない。けれどもコメディにもやはり主題はあるのだということを思い出して欲しい。ワーナー・ブラザーズのテレビアニメは「ばかげたものが勝利を手にする」と要約できるだろう。このアイディアの変奏はサトゥルナリアの祭りからチャーリー・チャップリンまで様々なコメディーに見られる。ドラマ性が少ないプレイでも、主題を意図的に選択することで物語に輪郭や質感を与えることができ、プロットの展開について他の方法ではできないような暗示を与えることもできる。

プレイを始める前に(もしかするとキャラクターが作成されるよりも前に)主題について議論することはほとんどのグループにとって非常に有用だろう。GMが密かに主題を選んでストーリーラインにこっそり組み込むことももちろん可能だ。だがこれは、困ったことに、プレイヤーを予め敷いた線路の上で走らせるようなことになる可能性を少なからず孕んでいる。遊び手全員がその主題に参加できるなら、あるいは、グループ全体としてどのような主題を探求してみたいかについて合意を形成できれば、もっといろいろな可能性が開けて来る。主題について意識しているプレイヤーは、それに基づいてキャラクターの行動を決定するし、そうすることで物語の実質的な部分に貢献しているのだと知ることになるのでより高い満足を得るかも知れない。

そのように明言した上で断っておきたいのだが、主題は正確には「プレイ」の中心になるものではない。但しこれは全員が興味を持つ主題をグループが選ぶべきだと考える更なる理由なのだが。もし全員が同意していれば、説得力のあるアイディアは物語にうまく編み込まれていくことになり、単にゲームの背景世界の現実の一部として前提されるようになる。全員に見えるような場所? たぶんGMのスクリーンの後ろの部分などに、紙に書いてテープで貼り付けられた主題は、プレイヤーの潜在意識に働きかけてプロットに方向性を与えるだろう。けれどもテーマはガイドであって、義務ではない。その影響は微妙で、直感的なものであるべきで、心理的なバックグラウンドノイズのようなもので、演奏される旋律と折りに触れてハーモニーを奏でるようなものであるべきだ。グループが当初予定していた主題と異なるものを探求することになるという展開は充分ありうることだし、そういうことはあっても構わない。結局のところ、即興の楽しみの一つは、プレイを通じて創っている物語が思いもよらなかった場所へと自分を導いて行ったことを発見することにある。

モチーフは、「深層」にある主題よりももっと扱いやすいものだ。とは言え、どのようなモチーフを選ぶかについて配慮することは無駄にはならないが。モチーフは様々な形態をとりうる:反復されるイメージ、互いに照合しあうシーン、GMとプレイヤーが興味を持つ要素(それが何であれ)の遍在。非常によくできたシナリオでは、モチーフは物語のより大きな主題の反響か反射になっている。上に挙げた文学系の例を再び採用するなら、トーマス・リゴッティの物語りは、都会の風景の中にしばしば仮面と操り人形の強烈なイメージを含んでいて、シュールな、夢のような感じがする。これは幻影の表面の背後には悪意に満ちた世界があるという彼のアイディアを示す隠喩だ。プレイのモチーフも、プレイヤーが探求したい主題との関連で似たような形で提案することがしばしば可能だ。

ただし、反対の方向を追求することも同じくらい興味深いことに注意して欲しい。つまり、グループが興味を持っている様々なモチーフを通じて、「深層」にある主題を発見することも興味深いのだ。本当に楽しいプレイに度々現れるイメージは、プレイヤーとGMの執着している物事を反映しているものだ?結局のところ、物語が受け手をひきつけるのはそのためなのだ(スティーブン・ブルスト(Steven Brust)? 彼は時にゲーマーでもあるが?はこれを文学のクールなモノ理論( the Cool Stuff Theory of Literature)と呼び、個々人が物語を通して得る経験は、その物語に込められているかも知れない高尚なアイディアよりもむしろクールだと作者と受け手が同意するモノが含まれているかどうかによってより大きく影響される、と提案する)。そこで、もしもプレイが常に同じシーンに立ち帰って来たり、ある特定のミームを含んでいるようなら(徳の高いパラディンであれ、悪徳陰謀企業であれ、大きなコートに身を包んだ魔法使いであれ)、それらのイメージの下に潜んでいる主題が何であるかを考えてみてそのアイディアの示している方向へどこであれプレイを進めてみるのは有用なことでありうる。

モチーフは、深いテーマにもまして、グループで事前に議論することが必要になる。特にGMが特定のシーンやイメージを意図的に用いてパターンを作ろうとする場合には。プレイヤー達は、意図するか否かに関わらず、探偵のように思考する傾向にあり、何かの効果を狙った反復が手がかりとして誤って解釈されることもある。モチーフまわりにプレイヤーを少々参加させることで、こうした混乱や意味のない追求をを避けることができる。そして、ここでもまた、グループの全員が同意しているか、少なくとも理解しているアイディアには全員が貢献することができる、ということが言える。ひとつ注意すべき点は、モチーフ(または主題の扱い)にインパクトを与えるには、しばしば、控えめにする方が有効であるということだ。モチーフがちょっとした冗談の類である場合には特にこのことがあてはまる?コメディーはほとんど普遍的に「3回の法則」に従っている。つまり、同じジョークの繰り返しは、3回以上になると余りおかしくないのだ(いつか、サタデー・ナイト・ライブのスケッチで冴えた切り出しが煩わしいものになることに注意してみて欲しい?それはほとんどいつも4度目の反復なのだ)。

RPGの文脈で主題について議論するという考え方は、とりわけ気取ったものに見えるかも知れない。そして主題などというものについて全く気にしなくてもゲームのセッションが完璧にうまく行きうるというのは本当のことだ。しかしゲームは物語を語る一つの手段であり、物語は、そのように仕組まれているか否かに関わらず、アイディアの探求を含むものだ?語り手の哲学、偏見、こだわりを表現するアイディアを。冒頭に述べた通り、ゲームがプレイヤーの意図しなかった意味を提示することはよくあることだ。それは参加者の誰もシステムやシナリオに含まれている暗黙の前提について問い返さなかったためかも知れない。プレイヤーが積極的に探求してみたいアイディアについて意識的に考えることは、全員がより楽しむという結果をもたらしうる?そしてもちろん、ダイスが袋の中に戻ってからずっと後になっても誰もが思い出すような物語も。

来月:リアリティの本性について扱います。お楽しみに。


この記事は米国RPGnetの許可に基づき翻訳されたものです。日本語訳については当サイト管理者ben*at*scoopsrpg.comまたは翻訳者まで。記事の内容については本人へ英語で連絡してください。

[タイトルへ戻る]