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The Last Dark Art: Exploring the Gaming Aesthetic

その1:もしも決めないことに決めたのなら、あるいはゲームマスター“賢い サム”の選択

One: If You Choose Not To Decide, or The Choices of Gamemaster Samwise

ダン・レイマン=ケネディー
Dan Layman-Kennedy

2002年9月26日

訳:トモス(tomosakinas*at*hotmail.com)

最後のダーク・アート の第1編へようこそ。僕はこのコーナーで毎月、厄介で遠大な主題である「芸術の一形態としてのゲーム」について議論して行くつもりだ−小説家や役者が芸の上達に打ち込めるようにロールプレイヤーが技芸の感覚を養うにはどうしたらいいかについて。その議論の中で、ゲームとその姉妹形態である様々な物語がどんな風に関係しているかにも触れる−散文のフィクション、劇、ストーリーテリング、視覚メディアについて、そしてゲーム芸術のためにそれらの領域から借りて来ることが出来るツールについて。

もしもこうした主題が耐え難いほどに大げさに響くとしたら、大げささはロールプレイヤーにつきまとう、小さからぬ問題ではあるけれども、少しだけ我慢しておつきあいしてみて欲しい。冒険を主題にしたゲームのように想像力を駆使して遊ぶエンターテイメントは、そのことを恥かしがらなければ、その分だけより面白味が増すというのが僕の考えだ。ゲーマーはしばしば彼らのやっていることが趣味以上の何かではない、?趣味で、暇つぶしで、おたくっぽい、現実逃避の気晴らしで社会不適合者のやることだ?ということを余りにも主張し過ぎているように見える。そのために、われわれはロールプレイングゲームが芸術の一形態として考えるに値するものだと考えなくなってしまっているかのようだ。ロールプレイングに注ぎ込む創造的な努力は、本やフィルムをつくる時のものに比べて「重要」でない、もしゲームに何かアートとしての価値があるとしたらそれは「本当に」価値のある物を創造するための想像力を使う練習をするようなものだ、といった風に考えることは余りにもたやすい。けれども僕はロールプレイングはその創造活動自体に価値があるものとして、その探求が芸術としての正当性を持つようなものとして、独自の基準で評価されるべきだと考える。ゲームは、他のどのような物語の形態と比べてもひけをとらないだけの、人を没頭させ、感動させ、深淵な考えを探索させる可能性を持っているし、われわれがその可能性を真剣に受け止めるならなおさらそうだ。このコラムのねらいは、ひとつには、この広大でほとんど未開拓の領域を探索することにある。

今回は、僕は選択(Choice)について書いてみたい。

「選択」はロールプレイヤーの間ではある種の意見と結びついた言葉だ。本当に選択余地がないゲームは、ある意味ゲームたりえていない、聞き手の参加のためのリップサービスを加えただけの小説だ。マスターが敷いた線路の上を進むだけの物語で本当の意思決定をする余地がなければ、プレイヤーもそれを楽しむことは希だ。ゲームにまつわるもっとも嘆かわしい罪を犯すレフリーというのは、権力の濫用をしているかも知れないし、していないかも知れない。けれどもそういうレフリーは、ロールプレイングについて本質的なあることをほぼ確実に忘れている:双方向性(インタラクティブだということ)だ。物語メディアの中では独自の存在として、ゲームが語る物語では、クリエイターと受け手は同一人物だ。物語の行方について口を挟むことができないプレイヤーは、せいぜいのところゲームの素晴らしさの半分しか経験していない。GMが語る物語はある面では非常によいものかも知れないが、それはマスターウィルによれば、「よく出来た物置だよ、でもプールじゃないねえ」ということになる。(訳註1)

選択はゲームの心臓部であり、ロールプレイングの会話でも中心を占める。「どうする?」「左の扉にするか、それとも右の扉にするか?」 「攻撃するか、それとも撤退するか?」 「メイスにするかブロードソードにするか?」「カオティックかローフルか?」そしてもっと基本的なレベルでは、グループ自体がそうだ。「ファンタジーかスパイ物か?」「ハードSFかスペースオペラか?」「シリアス物かライトなものか?」

これは選択という言葉のもうひとつの意味に触れることになる。役者や、その他の劇団関係の人たちが使う意味だ。これらはデザイン上の選択で、プレイヤーがキャラクターについて行う、非常に基本的なものから(職業、種族、あるいはテンプレートやアーキタイプ、何であれシステムで使われているもの)非常に詳細な点についてのもの(好き嫌い、動機、その他性格の詳細)などについての諸決定に似ている。プレイヤーにとっては、能力や長所が最も目立つ特徴であるようなキャラクターを作ることは、魅力的なことだ。そしてこれは特に悪いことでも何でもない、ロールプレイヤーは使っているシステムが何であれそれを最大限活用しようとする点を除いては。ミニ・マックス戦略は、マンチキン類にだけ見られる習慣ではない−キャラクター・シートとルールブックとにじっくり取り組んだ人であれば誰であれ、多かれ少なかれこんなことを考えたはずだ:どんな弱点を選べば、一番少ない不便さで最大のポイントを得ることができるだろうか? どの職業が長所が一番多く、弱点が一番少ないだろうか? もちろん、われわれはみんなゲームバランスを信じている。だがもしもそれが君に有利な形でバランスがとれていたらその方がずっといい。そうだろう?

役柄を準備している役者は、もしもよい役者であれば、こうしたデザイン上の選択に関して少し違った質問を考えるだろう: どの選択が一番面白いだろうか? そしてこの点が他の全ての事情に優先することになる。「やさしい」選択はほぼ常に破棄される。ハムレットを演じる役者のほとんどが、ハムレットは単に気のふれたふりをしているのではなく(あるいはそれに加えて)実際に気がふれていることにするのはそのためだ。ハムレットの狂気を本物にするというのはずっと面白い選択だ−それはより複雑で、やりがいがあり、道化めいた彼の性格が関わって来る場面に深みをもたせることになる。

ロールプレイングは正確には演技ではない。けれどもプレイヤーもGMも役者が選択を行う時の哲学を採用するとメリットがあるかも知れない。遊び手が選択をする際に、意図的に、やさしいものではなく興味深いものを選ぶとしたら、ゲームは完全に新しいレベルに突入するだろう。これはキャラクターとしてプレイし、それをリアルなものにするための主要な部分であり、この哲学は創っている物語の出来について、参加者各人に責任があるという感覚を与える。プレイヤーであるということ、共同創作者であるということは、手持ちの道具立てで出来る限りの、最も興味深い物語を語ることに興味を持つということだ。われわれが持っているドラマの感覚に訴えかけることは、楽な人生を送っているキャラクターを使うということとはほとんど相容れない。

前に書いたとおり、このアイディアはGMが肝に銘じておくのも悪くない類のものだ。僕はしばしば驚愕させられるのだが、少なくとも他のメディアのクリエーター達と同じだけの想像力の豊かさを持っているゲーマー達が、舞台になる世界やシナリオのデザインの際に、手軽でありふれた道を選択することがある。

かの有名なケネス・ハイトは少なくとも一度、こう言ったことがある。よいルールブックであれば、そこには、使い手が好きなように変更してもよいということが書いてある。けれども「聖典」扱いされている部分からの逸脱を奨励するものは余りにも少ない。高貴なエルフ、美しい心を持った盗賊、黒いマントに身を包んだバンパイアなどは、確かによく出来ている。けれども既に使われたことのあるイメージだ。ゲームの世界にそうした要素を導入する前に、こんな風に考えてみるのも悪くないだろう:これは自分が語りたい物語にとって一番興味深い選択だろうか? 考えた結果、答えはイエスだということになるかも知れない。しかし世界をデザインする人はその問いかけをすることによって少なくともその答えを、その理由も、知ることができる。こうしたことに充分注意を払わないことは、プレイヤーが没入できる可能性の消滅を意味しているかも知れない。それはゲームという枠組みの中で最良の種類の物語を創作していくことも、駄目にしてしまうかも知れない。

選択に関して演劇指導のクラスからゲーマーが借用できるもうひとつのアドバイス−これはキャラクターづくりの黄金則だ:選択は具体的であればあるほど望ましい。即興演技の第一原則の一部には、必要になるよりも多くのアイディアを準備しておくように、というものがある。具体的な選択を行うことは、君の蛮族の戦士のキャラクターが「ありふれた戦士ウゴ」になってしまったり、君のファンタジー世界が、何かのキットを使って作ったものに見えてしまったりすることを防いでくれる。もちろんあれこれと作業が必要になるわけだが、見返りは大きい。だから「メソード演技」(訳注2)にあるようなやや愚かな質問に答えるべきだ:あなたの両親はどんな人か? 大きくなったら何になりたいと思っていたか? 一番好きな色は? 好きな音楽は? 好きなウイスキーのタイプは? こうした事柄の9割まではプレイ中に登場しないことをわきまえておく必要がある。けれどもこうした点についての設定をプレイヤーは知っているし、そうした細部への配慮は、はっきりと意識されるレベルではないかも知れないけれども、ゲームに反映されるものだ。そしてこれは満足のいくゲームのカギのひとつである、リアリティの共有を助ける。具体的な選択が行われているほど、二次的な、架空の世界はよく伝わるものになる。

この話も、世界設定のレベルについてもあてはまるものになっている。ある封建制の王国について、GMが10代前までの君主の名前を知っていて、王家の紋章はどんな生物を描いているのか、5000年前に国を築いた放浪の部族はどういう人々なのか、などを知っていると、その王国は新しい次元を獲得するだろう。こうした情報をプレイヤーが知ることはないかも知れない、けれどもGMは自分の創造物に自信を持つだろうし、そのリアリティーの堅固さは、ゲーム卓を挟んだ他のプレイヤーにも伝わっていくだろう。これはもちろん、全ての物事が現実世界と同じ論理に従っていなければならないということではない−現実世界の論理はしばしば恣意的で退屈なものだ。ドラマの論理は固有の種類の形状や勢いを持っており、おそらくはより面白い−それなりの一貫性があって、その世界がどんなところであるかについてそして全てのプレイヤーが同意する考え方にに呼応していている限りは。

最後に、この共有されたリアリティというアイディアは、ロールプレイングの世界ではしばしば見過ごされている選択の一側面に注意を促す。僕はこの議論の始めにこういうことを書いた。プレイヤーは本当の選択肢を与えられていなければゲームは本当のゲームではない。何故ならプレイヤーは、集団で語られる物語の共同創作者だからだ、と。これは、実際のところ、ロールプレイングを散文によるフィクションや映画や演劇、脚本に基づいた他のあらゆるメディアから分かつものだ。ぼくは、このプレイヤーの選択の自由を、単なるキャラクターの行動の選択の自由から更に一歩進めたものにすることを提案する。ゲームはGMのショーであり、他の人は乗り物に乗って同行しているだけだ、と考えることはたやすい。けれども、常にそうでなければならないというわけではない。プレイヤーが物語の行方に手出しできるようにしてはどうだろうか−彼らのキャラクターが直接影響力を発揮できる範囲を超えて、物語の展開についての意見を募っては?

明らかに、これはデリケートなやり方で扱われるべきもので、全てのゲーム、全てのグループにとってうまくいくものではない。そして、プレイヤーはどんな選択をすることができるか、GMはどの程度それらを取り消せるか、などについての合意が自然と形成されなければならないだろう(一部のシステムにはそういうことをするためのルールが組み込まれている。そしてこうしたルールは簡単なので他のシステムに組み込むこともできる)。いろいろな形式が考えられる−ポイントやトークンを割り振ってプロットの変更に使えるようにするものや、インフォーマルな幕間を設けてGMとプレイヤーが物語のこの先の展開や方向について議論するものなど。これはゲームを始める前に、考え方を共有するべく真剣な議論をすることが有益な問題だ。そしてその議論は多くのゲーマーが意識していない様々な選択を伴うものになるだろう:この世界はどんな匂いがするだろうか? その質感や色あいはどんな風だろうか? もしこの世界での生活が一言で言い表せるとしたら、それは何だろうか? どんなイベントが繰り返し起こり、どんな物事が全くありえないだろうか?

このような種類の遊び方は最初の段階でより多くの努力を必要とし、事前の注意や議論が必要になる。また、それらを台無しにするようなことはしないという点についての参加者の間の多大な信頼関係も必要だろう。けれどもしかるべき条件が整えば、共同創作のプロセスがより平等主義的になることでゲームがより満足のいくものになることができないという理由はない。最低でもこういうことが言える−「ロールプレイングとは何か?」というほとんどのルールブックにあるセクションの記述、ゲームはシナリオを提示するGMとそれに反応するプレイヤーから成る、という説明を逆転させてみることは興味深い。僕は、プレイヤーがシナリオを提示してGMが何が起こるかを説明するという見方でも同じくらいうまく行く可能性があると提案したい。演劇業界の似たような考え方を再び借りて来ると、監督の役割はかつて「舞台の上で何が起こっているかを見て、もし気に入らない点を見つけたら、変更する」ことだと説明された。ゲームマスタリングについても似たような哲学を採用することで真に興味深い選択がプレイヤー側で行われることを可能にし、しかるべき条件の下では豊かで素晴らしい成果をあげることができるだろう。

では、楽しいゲームを。賢い選択を。

次回は − テーマについて!


訳注1:「よく出来た物置だよ、でもプールじゃないねえ」というのはアメリカ産のTVアニメ番組シンプソンズのあるエピソードに登場するせりふで、一家がプールを作ることに決めてせっせと働いた後に、出来上がったものを評してあるキャラクターが口にしたもの。

訳注2:「メソード演技」アメリカを中心に演劇、映画などに携わる人々の間で広く用いられている演技の訓練法のこと。


この記事は米国RPGnetの許可に基づき翻訳されたものです。日本語訳については当サイト管理者ben*at*scoopsrpg.comまたは翻訳者まで。記事の内容については本人へ英語で連絡してください。

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