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あなたはフィドリーを知らない
You Don't Know Fiddly

1998年9月22日

著者 ラリー・ホルス(Larry D. Hols)
翻訳 とんがりぼうし(wizhat*at*anet.ne.jp)

そして、兄弟たちよ。あの日々が過ぎ去ろうとしている。誰もが暗闇の中で育った世代が過ぎ去ろうとしている。そうだとも、その世代の誰もが灯りなしで育った。誰もが手引きなしで育った。なぜなら、誰も道を照らすものがいなかったからだ。

そうだ、わが友よ。ひとつの世代が育ち、そして去った。そのうちの誰もが、今日私たちが分かちあっている喜びを知らなかった。その世代に属する誰もがフィドリーの喜びを知らないまま去った。悲しいことだ、兄弟。彼らはフィドリーを知らなかった。

フィドリーとは何か

ある人々はフィドリーを科学だと説いた。曰く、フィドリーはオッカムのかみそりの格言(注)をゲームデザインに当てはめたものであると。この前提のもとでは、フィドリーはガラクタの寄せ集めであるゲームを、もっとも単純な形式にするために微調整することだ。  

他の人々はフィドリーを美術の形式と主張している。彼らが言うには、全体としてまとまった構造、同時に現れる雑多なものの相互作用の中に美は見出される。フィドリーは直感的かつ、芸術的な手法で、内的な視点と外的な表象を混ぜ合わしたものとして理解されている。  

フィドリーを精神的な修練と信じている人もいる。真理探求の真髄には取り得る道を探し、最も共鳴することを見つけ出すということも含まれている。この場合、フィドリーはそれが使われるためのものであるのと同じ程度に、進行中の悟りのためのものである。  

このコラムでの取り組み方は上に述べたどれかひとつではなく、全てであろう。フィドリーは職人芸として存在している。オッカムのかみそりは、洞察力を直感的に理解するものとして、フィドリーにあてはまる。悟りを求めることはガラクタの寄せ集めを器用に扱うことに通じ、ついに、作品のよりよい部分のみが職人の手の中に現れる。時には、あらゆる取り組み方を完全に満足させる資質である、理想的特性が現れることもある。  

実際的な言葉で言えば、フィドリーとはゲームの要素、すなわちゲームのメカニズム、設定やその他なんでもに目を向け、それらがゲーム全体とどうやってなじむか、また何によってよりよくなじむのかを分析し、それら素材の抜群の出来映えを多いに尊敬することである。  

フィドリーは何をするのか  

厳密に言うと、フィドリーは何もしない。しかし、フィドリーを実践する人は、いつも自分たちのゲームにとって価値のあるものを捜し求めている人だ。ガラクタの寄せ集めはどれだけ良いゲームが製作できるかを学ぶために、また、その製作者の腕を賞賛するために研究される。ほかにも、ガラクタの寄せ集めはゲーム製作における個人の技術を磨き、何かをよくする機会を与えてくれる。  

言いかえれば、フィドリーは、良くも悪くも、ゲームの要素を綿密に観察し、断片同士をどうやって適合させるのかを理解するために調整をする、何らかの作用である。また、フィドリーは示されているものが何であるかを理解し、そのメッセージを極めてはっきりとしたものにしようとする試みである。  

誰がフィドリーを知っているか  

ほとんどのゲーマー、通常たったひとつのゲームで遊んでいてほとんど他のシステムに興味を向けない一般大衆はフィドリーの楽しみを知る機会を逃す。たったひとつのルールの支配下にあることに執着することによって、彼らはさまざまな視点でものを見るという喜びを発見し損なっている。彼らはフィドリーを知らない。  

いつも自分だけでこっそりと見るためだけに、たくさんのシステムを集めるゲーマーがいる。これは確かに良質の参考図書館、すなわち、本物の専門家が利用したがるもの、を提供しているが、それ自身は理解の兆候となるものではない。彼らはフィドリーを知らない。  

あるゲーマーの小さな集団は、ルールのそれぞれの節ごとに何が達成されるべきかを完璧に理解することが完全にゲームを楽しむのに欠かせないと信じている。その上、これらのゲーマーたちは、オリジナルのゲームデザインに本来備わっている目的のより良い達成の仕方を発見しようとして、ゲームをいじくりまわす。彼らは、ゲームの断片を効率的で洗練された働きをするものに変えるために、それらをもてあそぶ。彼らはフィドリーを知っている。  

何がフィドリーでないのか  

とはいえ、フィドリーは外部の視点をゲームに取り入れようとする試みではない。ゲームを良くするためにルールの章立てをして、その後に、自分が現在好きなルールはなんでもシステムに詰め込むことが唯一最良の道である、という手法を多くのゲーマーが取っている。例えば、AD&Dの流れに連なるものに、クラスを基礎にしないスキル制を継ぎ足そうと試みるような連中はフィドリーを知らない。AD&Dの真髄はアーキタイプ/クラスの体系であり、そもそもアーキタイプを使う主な目的を無にすることを解決することである。  

フィドリーは、強烈な興奮を付け加えたり、「充実している!」と褒め称えて、要素同士を縫い合わせるものではない。気に入ったゲームシステムから気に入った部分を抜き出すのはフランケンシュタイン博士にこそふさわしい外科手術であって、ゲーム作りの職人にふさわしい行為ではない。この種の行為に夢中なゲーマーは自分自身の好みを良く知っているかもしれないけれど、彼らはきっとフィドリーを知らないだろう。  

このコラムで何を扱うか  

このコラムはフィドリーに関するものだ。その通り。それそれの回で、いくつかのゲームのいくつかの側面を吟味し、それらをいじるだろう。一部は膨大なものになるかもしれないが、十中八九それらは一部分でしかないし、必ずしも重要なものであるわけでもない。ゲームのしくみは明らかにフィドリーのために選ばれたものだが、設定の素材も大きな喜びをもたらすことができる。  

曲がりなりにも、このコラムはゲームデザインに関係したものになるだろう。ゲームデザインとゲーム製作に「ただひとつの正しい道」を示すための講座ではなく、細部を念入りに作りこむ事に関するものになるだろう。ゲームの核心はデザイナーによる総体的な素材の表現にあるが、その核心にたやすく触れられるのは細部である。このコラムは細部を吟味し、デザイナーの意図をできる限りわかりやすく示すことに専念する。

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(訳注)オッカムのかみそり:「ある事柄を説明するのに、仮説は必要以上に定立してはならない」という格言。

 


この記事は米国RPGnetの許可に基づき翻訳されたものです。日本語訳については当サイト管理者ben*at*land.linkclub.or.jpまたは翻訳者まで。記事の内容については本人へ英語で連絡してください。

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