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You Wanna Fight?

死と戦い

Death and Fighting

ブライアン・ジョンカー
Bryan Jonker

2001年9月3日

訳:あきのり a-kawada*at*netjoy.ne.jp

問題提起(The Problem)

僕は、陰謀、ミステリー、ホラー、それにロールプレーイングに重きを置いたキャンペーンをプレイする傾向がある。かつては、ダンジョン探索をプレイしていたけど、参加してくれるプレーヤー達にも、自分自身にもピッタリくるものではなかった。しかし、最もロールプレーイング重視/謎解き重視のセッションでさえ、僕は最低でも1回の肉弾戦を盛り込むようにしてきた。単に、雰囲気に活気をつけようとしてきたわけだけど。なぜなら、陰謀重視、ロールプレーイング重視、謎解き重視というのは、愉快である一方で、迅速な戦闘ほど、プレーヤーをセッションのめり込ませるものもないからだ(もっとも、そうしたことをは、レーヤーの心理のせいだと言えなくもないし、僕のマスタリングの能力のせいだと言い切ってしまえるかもしれない)。だけど、僕が相手をするプレーヤー達は、サイコパスのように振る舞おうとしない。すなわち、「三匹のオークを発見した。そいつらは、君らを攻撃してくる」/「君らは直ちに攻めかかる」ということができないというわけだ。つまるところ、プレーヤー達は、最初になぜオークが攻撃してくるかを尋ねてくるのだ。もっと言うと、僕の作ったキャンペーンの多くは、人間ばかり出てくる。つまり、人間以外の種族は、僕は使わないということだ。僕に必要なのは、背景だ。僕がしなければならないのは、これらの戦闘を計画的なものにすることだ。僕に必要なのは、理由なんだ。

アラインメントでは解決にならない(Alignments Aren't the Solution)

AD&Dのローフル・グッドのパラディンは、ちょっとした困惑の種だ。もともとAD&Dでは『聖ジョージと龍』(*1)“地獄へと赴く騎士”(*2) といったイメージから、パラディンを引っ張ってきている。それは素晴らしく良い着想だが、第1レベルのパラディンは、もっと穏当な目標を設定しなければならない。プロテクション・フロム・エビルは、たった半径10フィートの範囲しか有効でないしね。そこで、パラディンには、オークやゴブリン程度の邪悪な存在で最初の経験を積ませることになる。この結果、我らがパラディンは、知性と感情を持った 無数の存在を淡々と虐殺するようになる。オークやゴブリンが邪悪な種族であるという理由だけで。「オークやゴブリン」を「ドイツ人や日本人」に代えたところで、同じ問題を目の当たりにすることになるだろう。

アラインメントは、あえて言うなら、警官(*3) みたいなものでもある。支え、と言ってもよい。人は貪欲で、利己的で、愚かで、怠惰であり、精神的に病み、あるいは、結果を考えようとしない。でも、人は、邪悪ではない。最も重要なことは、人は変わることができるということだ。精神療法の用語法によるならば、我々は、必ずしも行動によって定義されるわけではない。人は邪悪に行動するかもしれないが、邪悪な状態にあるわけではない。図解すると複雑になるが、人は内的刺激と外的刺激の両方によって行動するものだ。あるギャンブラーが、イカサマのための余分なエースを隠し持とうとするのは、そのギャンブラーは普段からズルいせいなのか、それとも、10連敗したおかげで、フラストレーションがたまったせいなのか?…ということだ。僕らは、潜在意識下において、外的刺激を自分自身の行動に、内的刺激を他人に関連付けようとする。「僕は、普段はウソをつかないんだけど、遅刻しちゃってるし、くよくよと長ったらしい言い訳をしたくないし。ノーマはどうかって? ああ、彼女は嘘つきさ」という具合だ。アラインメントは、あらゆる人の行動を内部化する方法であり、現実の生活ではスキャンをかけるようなものでもない。

もちろん、皆、そいつは人間のことだ、と言う。で、僕らは、人間ではなく、オークやコボルトについて論じているわけで、オークは、どうしたってオークだ。だが、話せるくらいに充分に知的で、部族をエビルにできるくらいに充分に社会的な種族には違いないだろう? ああ、僕だってドラゴン・マガジンの「オークの生態系」(The Ecology of Orcs)には目を通しているけど、納得できるものじゃなかった。多分、それは僕の教養的知識になっているが、僕の世界の生き物には、「動物のような」生き物もいれば、「人間のような」生き物もいる。大きな問題は自由意志というやつだ。−生き物が自由意志を持たず、本能のみに従って行動するならば、その生き物のことを、行動によって非難することはできない。生き物が自由意志を持っているなら、その生き物は良い行動を採るか、邪悪な行動を採るかを選ぶことができる。「オレは自由意志を持っているが、エビルを選択するだけさ」というオークの思考は、パラドックスである。そして、そのパラドックスは、僕には単純に解くことができないのだ。

だからといって、モンスターは存在できないものなのだろうか? もちろん、そんなことはない。しかし、僕がこのことをどう扱っているかは、次回のコラムのネタだ。さて、チューニングして……

平和主義のゲームだって?(A Pacifistic Game?)

もう一方で(え? 第三の方向じゃないかって?)、敵はなくてはならない。完成されたストーリーの中心には、衝突がある。そして、プレーヤーには衝突する誰かが必要だ。加えて、暴力は楽しい?なぜかといえば、超大作映画だって、登場人物Aが登場人物Bをよく殺してるし、 Duke NukemやDoom(*4) とその類似品の人気ぶりを指摘するまでもないだろう。それだからこそ、どうしたら、人に齧りつくシブリス(Syblis)や嵐のようなクルボイアス(Chrboyus)(*5) の間を通り抜ける旅ができるだろう?、というようなことになるわけだ

ゲームマスターはナビゲーターである。マスターは、シナリオのプロットを作らなければならなず、それには衝突が必要であるし、さらには、押しつけるような衝突ではいけない。さもないと、人々が明らかな理由もないのに戦いを始めるような、できの悪い香港映画のようなドタバタ劇にはまってしまう。マスターは、それが唯一の選択肢でないのならば、戦いが実行できるという状況にプレーヤーを導かなければならない。マスターは、戦闘ができるようなゲーム世界をデザインしなければならない。これらの問題が、このコラムの起源である。−僕は、「戦い」というものを探求していく。「戦い」の設定の仕方や「戦い」の取り扱い方、そして、最も重要な「戦い」に説明をつけるやり方を、だ。

コラムで扱うトピックス(Topics)

いの一番に、死と戦いについて議論することは、やりにくいに違いない。−一方にはタカ派がいて、一方にはハト派がいるわけだし。僕は死と戦いについての問題に触れることを恐がるわけではないが、政治向きの話ではなく、ゲームに関して焦点を絞りたいと考えている。僕が、例えば、湾岸戦争とそこでの人の死に対して何らかの見解を示すようなことは、このフォーラムではしない。その代わりに、最後にとって付けたように戦うのではなくて、ロールプレイを深めるような戦いができるようにアイディアを提示したい。因みに、僕がコラムでカバーしたいトピックは、編集者の意志も踏まえると、こんなところだ。カルト、コンテスト、マインドコントロール、モンスターの心理学(既に触れたけど)、平和主義、降伏の仕方、法律…。プラス、他の何でもだ。戦いに関係する何もかもが、まさにゲームなのである。

ゲームの始め方:その違いについて(Starting the Game: A Distinction)

皆は、ここでのゲームのはじめ方が他とはどう違っていて、既に述べた2つのポイントとどう関連してくるか、尋ねたくなっているだろう。最も基本的なゲームの幕開けはこんなところだろう。「邪悪な皇帝を暗殺しなければならない/ドラゴンを殺さなければならない/悪魔を祓わなければならない」。トールキン風の「魔法の品物を得る」というモチーフであっても、大概は、モンスターを殺すことが、キャンペーンを始める最も一般的なやり方だ。まったく非の打ち所はないが、そのキャンペーンは、キャラクターが主たる邪悪な存在に辿り着くまでに数セッションはかかるものになるだろう(そうでなければ、それはショート・キャンペーンだ)。さし当たって、皆、何をするだろうか? 邪悪な存在には、多くの手下がいるとしよう。では、なぜ手下どもは戦うのだろうか? 手下どもは、ストームトルーパーのような心のないドローンなのだろうか? そうではないとしたら、君達よりも悪漢の方を恐れているのだろうか?

これらの問いかけは、いったい何を意味するだろうか? 一人の悪漢が、手下どもから信頼を得ているということなのだ。そして、彼らのグループは、多分、常軌を逸してはいるが、それでも成立し得るものだ。だが、邪悪な人々ばかりの国というのは、成立し得ない。君が作る戦闘の全てが1人の人間に依存しているのならば、その1人が真に特別な存在になるように、キャンペーン/世界をよくよくデザインした方が良い。大半のゲームはそんな風に設定されていないが、そうした方が、最後にクールでもっともらしい戦闘を用意できる…そして、いくつかの無意味な戦いを除いて、最後の戦いまでプレーヤーがすいすいと進んでしまうこともなくなる。大きな「ボス戦」は重要だけど、僕がもっと興味をひかれるのは、より小さな、日々の衝突なのだ。

追記(Addendum)

もちろん、僕は、一定の観点からゲームにアプローチしている。既に述べたように、僕は、ダンジョンの探索行からひどく熱中させられるロールプレイに及ぶ冒険をやってきた。僕個人は、どちらか一方の極に留まることは、スタイルを融合させていくよりも面白くないと感じている。無論、それがあらゆる人の好みにあてはまるわけでもないだろう。そういう人達が言うように、ここは自由の国なんだし、ゲームの楽しみの一つは、決まっていることの反対を行くことだ。しかし、僕が心を揺すぶって、同じ考えを持つようになった人達に、僕は、アイディアのヒントが示せれることを願っている。


訳注

*1 『聖ジョージと龍』
聖ジョージ(言語によって、聖ジョルジオ、聖ゲオルギウス等)は、3世紀後半から4世紀初頭にかけて生存したキリスト教の聖人。主に、小アジアやパレスチナ地方に駐屯したローマ軍団所属の軍人。皇帝にキリスト教の迫害をやめるように意見具申するなど、熱心なキリスト教徒であった。中世騎士の範とされるほど、騎士的態度に満ち溢れた人物だったようで、死後には龍退治の伝説が創作され、カトリックの聖人の中でも人気が高い。また、彼の龍退治の伝説は、あらゆるファンタジー小説の祖であるとも言われている。

*2 “地獄に赴く騎士”
原文は、"knight wading into hell"。引用符付きなので、定型的な表現かと思いあれこれ探して見ましたが、適切な表現にお目にかかれず、直訳的にやっておいた。

*3 警官
原文はsloppy。slopならば、英俗語でいう「警官」。辞書を引く限りでは、sloppyとすると違う意味になるのだが(ずぶ濡れだとか、ずさんだとか)、それでは意味が通らないし、直後の「支え」(crutch)とも矛盾するので、あえて、「警官」で通してみた。

*4 Duke NukemやDoom
どちらも、出てくる連中を片っ端から撃ちまくれ…という暴力描写満載のシューティングゲーム。

*5 人に齧りつくシブリス(Syblis)や嵐のようなChrboyus(クルボイアス)
このコラムの読者にもこの表現は不明のようであり、フォーラムのBBSには、SyblisとChrboyusというのは、ホメロスのオデュッセイア(オデッセイ)に出てくる、スキュラ(またはスキュレー)=Scyllaとカリュブディス=Charybdisの比喩か何か?という主旨の書き込みがある。そして、翻訳時点において、それに対してはレスポンスがない(私に代わってさらに質問を重ねてくれたトモスさんに感謝)。そこで、当面、この説を採用して、訳をつけてみた。因みにスキュラは、魔女キルケーの嫉妬心によって下半身を6つ首の怪物に変えられてしまった美女が、船乗りをむさぼり食うようになったモンスター。カリュブディスの方は、元は女神だったのが、貪欲さをゼウスに罰せられて海に投げ捨てられ、水を大量に飲み込んでは吐き出して
(時には船ごと)、竜巻を起こすモンスターとなった。両者とも、イタリア半島とシシリア島間のメッシーナ海峡に潜み、スキュラに近い航路なら、乗組員がガブガブっとやられ、カリュブディスに近い航路なら船ごと飲み込まれたり、宙に飛ばされたり…という具合(大きな船が真ん中を通ると両方から襲われる)。なお、Syblisというのは英語圏の人の姓にあり、Chrboyusもそうだとしたら、女友達でも皮肉った内輪ウケのジョークという可能性があるが…回答がない理由はそれが原因か?^^;


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