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You Wanna Fight? |
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ブライアンJonker
2001年10月8日
訳:ホーリーブル(branco99*at*lycos.ne.jp)
前回のコラムで述べたように、アラインメントは、モンスターの殺戮や人為的に「我々は善良で、やつらは悪い」という状況を作り出すことを正当化する支えである。このスタンスから一歩下がってみると、全般的な「邪悪」に関して、もう1つの補足的な問題を見つけることができる。一方において、僕らは、こんな風に言う。「吸血鬼は、ためらいもなく人間を殺すのだから、邪悪である」と。しかし、一方では、こんな風にも言う。「人間は、ためらいもなく、牛を殺すが、だからと言って、人間が邪悪になるわけではない」と。
生命の尊厳に関する大きな議論に踏み込むつもりはない。僕が示したいポイントは、我々人間は、生き物を分類するということだ。家畜、ペット、感性を持った存在などだ。これらのカテゴリーは、人間の間でさえ流動性である。 牛のことを、ある文化では家畜だと見なすが、別の文化ではペットあるいは神聖な創造物と見なしている。では、モンスター達も同じように人間達を分類して、人間に「感性を持った存在」だというマークを付けていないという仮定は不合理だろうか? ああ、こいつはゾッとする考え方だ。だって、人間にとっての問題になるんだし、我々人間がやってることと、変わりはないってことだからだ。
さあ、このことは何を意味するだろうか? モンスターは、感性を持った存在以外のものとして人間を定義して、人間に対して、さまざまなふるまい方をするということだ。あなたが、どんなタイプのゲームをしたいかによって、このことは行動の手助けにも、障害にもなる。以下の文章は、モンスターによる人間のカテゴリーのリストであり、それぞれモンスターがどのような選択をするのかを表したものである。
最もポピュラーな選択のひとつは、「食物としての人間」というモチーフだ。このモチーフは、通常の補食性の動物から吸血鬼、狼男、生肉食らいのゾンビに至るまで広範囲にわたっている。このモチーフの一大長所は、それが単純であるということだ ? 誰だって、食べるということを理解してるんだから。さらに、誰でも食べられそうだってことになれば、かなり容易に戦闘に突入する。モンスターは腹ペコになる。だから、さまよい歩き、冒険者に出くわす。さらに、モンスターの心理に自信過剰の側面を付け足せば、そのモンスターは、ちょっとくらいの抵抗があったって(抵抗があるに決まっていると思うが)、引き下がりはしない。
しかし、その抵抗こそが、このモチーフ中の短所である。例えば、10,000人の人間と10匹のモンスターがいる都市を考えてみる。モンスター1匹あたり、1,000人の獲物がいるということになる。もし、トラブルに見舞われる人口のうち、冒険者が1%に過ぎないとするならば、どうしてモンスターが冒険者を攻撃するだろうか? 従順な牛と怒り狂った猛牛を選ばなければならないのなら、どちらを選ぶだろう? このモチーフは、GMが望むところによって、良くも悪くもなり得るだろう。GMがモンスター集団を使いたいのならば、シナリオを変更するか、人間とモンスターのパーセンテージをもっと等価に近づける必要がある。しかし、モンスターどもがプレーヤー達と出会うのを避けようとすることもあり得る。その場合、プレーヤー達に、あらゆるトラップやモンスターを惹きつける策略を駆使させることになる。例えば、「おい、ボビー、あなたはかなり無防備に見えるよ…それで、荒れ果てた墓地につっ立って金切り声をあげてくれ。で、僕たちの残りは、この墓地にある墓石の後ろに、全員で隠れていよう」って具合だ。
このモチーフは「食物としての人間」に似ている。しかし、モンスターの戦略は狩猟・採集から農耕に変化している。我々人間は作物である。このモチーフの一番最近の例は「マトリックス」だ。あの映画では、人間は、エネルギーのために維持されている。
資源であるから、人間が丁重に扱われることはない。人間の世話を焼く少数のモンスターはいるかもしれないが(モンスターの テンプル・グランディン女史*1 だ、多分)、ほとんどのモンスターは、人間を人間自体とは見なさず、何かができる物だとみなしている。厳しい統制が人間に対して課せられ続ける。しかし、許可を得られれば、時にはそうした統制が緩められることもあるだろう。資源として期待されていることを拒否するプレーヤーは欠陥品と見なされ、取り除かれることになるだろう。言い訳を口にすることは許されるにせよ、人間がこのレベルまで非人間的に貶められるなら、それはプレーヤーキャラクター対世界の構図になるかもしれない。かなり寒々としているが、ゲームのシナリオは楽園の中で起るわけではないのだ。
補足的に考えてみる。人間が資源ならば、いくらかの特色によって、特別に品種改良されるかもしれない。そうやって異なる種族が誕生することになるかもしれない。それも、計画されていない進化によるものではなく、モンスターが計画して生み出した種族として。
このモチーフでは、人間は根絶されつつある。映画「インデペンデンスデイ」のように、人間とモンスターのどちらもが、同じ資源を使用しているせいである。このモチーフもやはり戦闘が始め易い。なぜなら、モンスターはどんな人間も直ちに攻撃するからだ。プレーヤーが強かろうが弱かろうが、攻撃を受けることになる。最終的に、人間は除去されねばならないものだからだ。
しかしながら、いくつかの警告をしておく必要がある。モンスターと人間の両方の人口は、お互いが存在に気がつくくらいに、十分に高いものにしておかないといけない ? さらに、それぞれの種族が、たっぷりと資源を使い果たさないようにしておかないようにも。人間もモンスターも、いかなる大量破壊兵器を持つことができないか、ある理由のためのそれらの兵器をただちに使用できないようにしておく必要がある (そうでなければ、シナリオはショートアドベンチャーになる)。再び「インデペンデンスデイ」を例に出すと、エイリアンの兵器は適切な場所に設置しなければならず、それには時間がかかった、という具合だ。さらに、ある理由のため、モンスターは人間と妥協することができない。例えば、人間がモンスターとコミュニケーションできないとか、モンスターの文化/心理の中の何かが、妥協を防げている、という具合に。最後に、モンスターは、大雑把に言っても、人間と対等のものでなければならない。そして、人間とモンスターが同じものを望まなければならない。そうでなければ、メタン基の草食モンスターが、人間と同じように、同じ地域に興味を持つことはありっこないからだ。
またもや、キャンペーンの外観を変更するような設定だ。すべての人間は攻撃されるとは限りない ? 協力的で、「モンスターに友好的な」NPCが価値あるものとされる一方で、モンスターを攻撃するキャラクターは始末される。やはり、モンスターのコミュニティの中の一部は、親人間的で、いくらかの怪物と人間のペアは非常に緊密に結びついているかもしれない。しかしながら、怪物の社会一般は、人間を使い捨てにできるものと見なしているし、怪物を傷つける人間は誰であれ殺されてしまうだろう。
このモチーフは、どのように「資源としての人間」のモチーフと異なるのだろうか? 「資源としての人間」のモチーフとは違って、人間は消費されないし、虐待もされない。このシナリオは映画「ミクロ決死圏」(原題:Fantastic Voyage)を思い起こさせる。すなわち、自由の感覚だけがアドベンチャーを引き起こす。すすんで救出されたいとは望んでいない人間をプレーヤが救出しようとすると、道徳の曖昧さが浮き彫りになるかもしれない。
やはり、ちょうど犬に様々な品種が存在するように、人間にも様々な品種が存在するかもしれない。品種のうちのいくつかはショーや戦闘のために飼育されているかもしれない。モンスターは、人間を飼育して、戦闘時に戦わせるかもしれない ? いわば、ねじれた「ポケモン」である。
このモチーフを極端にすると、プレーヤーキャラクターがモンスターに対抗しなければならない理由もない。PC達がモンスターのために働いて、他の裏切り者の人間を狩るようなキャンペーンを描いたっていい。だんだんと、キャラクターの何人かは、裏切り者達を狩るのではなく、助けるべきだと悟るかもしれない。他のキャラクターは、同じように感じないかもしれない。こうしたシナリオは、無秩序で、実行することが困難だが、興味深いものだ。
さて、このモチーフはいくつかの可能性を持っている。人間が食物、資源、あるいは他の何であれ、ほとんどのモンスターは冒険者を回避するだろう。冒険者が危険だからだ。数少ないタフな精神を持つ、危険に惹きつけられたモンスターだけが、冒険者を積極的に追跡する。すべてのモンスターが危険に惹きつけられるとは限らないから、戦いの数はGMやプレーヤーが好むほど頻繁なものにはならないだろう。しかしながら、攻撃するモンスター達は最上、最大限に、あらゆる準備を整えている。冒険の幅を広げるなら、1人のマスターヴァンパイアがパーティを狩りたて、パーティはそのヴァンパイアから逃げるか、攻撃しなければならない、といったふうにシナリオを組み立てることもできるだろう。
モンスターは単に自分の命を永らえようとしており、自衛のために戦うのかもしれない。ほとんどの動物はこのカテゴリーに分類されるのだが、それは次のコラム記事のトピックということにしたい……。
訳注
*1 テンプル・グランディン女史
Temple Grandin:人名。動物心理学者(博士)、事業家、コロラド州立大学助教授。幼くして自閉症を発症したが、それを克服し学位を取得し、事業にも成功。『我、自閉症に生まれて』、『自閉症の才能開発』(どちらも学習研究社刊)などの自らの体験に基づく著作活動や講演活動も活発に行っているようである。自らの自閉症心理を本職の動物心理の研究に応用しているとも言われており、そのあたりから、文章中に引き合いに出されていると思われる。