うがつもの (Be shrewd)
長らくRPGから離れていた(一年ほど前にパトスが再燃した)僕は、RPGを語る環境の狭さにいささか悲しい思いをした。世間様はもうRPGに夢を託しておらず、旧友は人形の間隔を巻尺で測るゲームに没頭している。事実、僕も長らくオンラインRPGをリスペクトしていた。
これではちょっと寂しい……ので、とりあえず筆を取ってみた。
このような場で奇説暴論をする愚直をお許し願いたい。
今回、投稿を決意した動機はさとる氏のクラシック・トラベラーに対するレビューからだ。
氏のレビューは同じ30代の、いわゆる“ジェミスン船長世代”への呼びかけがうかがえる。おそらく、トラベラーに直接関わった世代なんだろう。
だが、僕はまだ若輩(20代後半)で、トラベラー直撃世代ではない。疎遠だったと言える。
それゆえ、さとる氏や、同じジェミスン船長世代にあたる馬場秀和氏とは違った視点でトラベラーを考察できると思う。
今回、僕が考察するのは「もしトラベラーとD&Dの知名度が逆転していたら」である。
なお、文中にしばしば馬場秀和氏のコラムを参照しているので、途中で氏のコラムを読みながら進めてもらいたい。これはさとる氏同様、トラベラーを愛しているであろう馬場氏への返答でもある。氏のコラムなくして、この考察は有り得ない。
***
もし、D&Dとトラベラーの知名度が逆転していたらどうだろうか。
そんなパラドックスが存在したとする。TRPGと聞けばトラベラーだ。和製TRPGの命脈をたどればトラベラーに行き着く。D&Dなど過去の遺物だ。多くのデザイナーが、影響を受けたゲームとしてトラベラーを挙げる。
さて、マクロRPG史はどのように変質しているだろうか。
……今は説明できない。
厄介なことに、TRPG界内部の評価を見てもトラベラーは低く見られている。
今の時点では、どうせ何も変わらない、かえってRPGはさらに衰退しているだろうと言う人もあろう。
敬遠されているからだ。
経験を重ね、その屋台骨を理解して、なお敬遠するのなら仕方がないが、大方は食わず嫌いだと思う。
トラベラー、ひいてはSFそのものが難解である。感覚がつかめず、拒絶反応がでる。
それ以上に、RPGそのものに失望し、トラウマを持ち、コンプレックスを持っている人もいよう。
だか、少なくともScoopRPGを閲覧している人はRPGに一縷の希望を持っているはずだ。馬場氏のコラムを読み、さとる氏のレビューに賛意を持ち、そして(気まぐれにも)僕の投稿を読んでくれる人なら、なおさらである。
そんな人たちなら、「TRPG界でのトラベラーの実力と功績」を述べる必要はあるまい。
トラベラーの精髄を味わっていることを前提に話を進めたい。
***
まず、なぜトラベラーはD&Dに及ばなかったのかを考えよう。
一般にD&DはRPGの第一世代、トラベラーは第二世代と言われている。これまで「キャラクターのいるウォーゲーム」でしかなかったRPGに、ストーリー構築という観念を持ち出したのが「TRPGにおける」トラベラーの治績と言われている。
これを進化と見れば、D&Dもやがてストーリー構築を組み入れるのが必然だろう。
事実、RPGにはストーリー性があることを、誰もが無視できなくなっている。
だが、D&Dの最新版、D&D3eにストーリー構築の要素はあるのだろうか。
ない。それどころか、原初のスタイルに回帰している。
RPGの「世代」は進化を伴っていないのだ。
ならば、現在D&D3eをプレイしている人は、ストーリーなどない原初の迷宮探検ゲームを堅持しているのか。
それも違う。初代D&Dとて、エキスパートルールの時点で迷宮を飛び出し、動機と展開、結末のあるストーリー性あるゲームへと転化した。
ストーリー構築が盛り込まれることによって、RPGは「連続性・関連性・持続性ある情報」である「ストーリー性」を手に入れ、はじめて娯楽から「ストーリー性ある文化」であるメディアなったのだ。
もしトラベラーが存在しなかったら、RPGはいつまでも「キャラクターのいるウォーゲーム」から抜け出すことはなく、シミュレーションゲームから独立はできなかっただろう。あるいは、『スーパーロボット大戦』がRPGを名乗っていたかもしれない。
だが、この功績はまともに評価されていない。
それどころか、忘れ去られている。プレイ経験がない人ばかりだろう。
それに対して、日本では後発のD&Dは変わらぬ名声を保ったままだ。
なぜ日本ではトラベラーが廃れ、D&Dは隆盛したのだろうか。保守的なTRPGゲーマーが、単に発売時期の差で選ぶとは思えない。SF、ファンタジーに関する素養の差も問題というほどではない。
ではなぜ、トラベラーは忘れ去られたのだろうか。
皮肉な答えだが、原因はトラベラーが打ち出した「ストーリー性」そのものにあったと推理する。
***
「ストーリー」と「ストーリー性」は違う。
だが、しばしばこの2つは混同され、誤用されている。そして、猛反発を受けている。
日本のRPG低迷期に出たストーリー重視と銘打ったRPGは、ゲーム性無視の物語作成ごっこ……馬場氏言う所の「RP」、「P」、「RでもPでもGでもない何か」ばっかりだった。あるプレイヤーの恣意による「美しい物語」のために、ルール無用でキャラクターを殺された(ゲームから外された)身の上としては憤懣積もるばかりで……。
ムキーっ、そんなことも許されるゲームなのか深○ってのはー。
……まあいい。
その反動として、ゲーム性復権の波がきても不思議ではない。
問題は、ゲーム性を追求する人ほど、ストーリー性は誤った進化体系だと認識していることだ。
その極致としてキャラクタープレイヤーがおり、それを推奨するRPやPがあるというのだ。
RPとかPとかで、散々痛い目に遭ってきた人なら当然の選択だ。
だが、だがである。
RPGはゲーム性さえあればRPGたりえるのだろうか。
僕はNoと言う。
だが、現実はYesの方に流れるのではないか。
ここで大多数の人がNoと言わない限り、トラベラーは廃れて当然なのだ。
そして、自覚はないかも知れないが、ゲーム性追求の道もまた、RPGに禍根を残した。
それよりも、「ゲーム」と「ゲーム性」、「ストーリー」と「ストーリー性」、似たり寄ったりの言葉が二通りも出てきた。まずはこれを解題しておこう。「ストーリー」と「ストーリー性」が混合されていること、それと同じく、「ゲーム」と「ゲーム性」も混同されている可能性があるからだ。
***
「ゲーム」と「ゲーム性は」違う。
ゲームとは快楽、欲求、要求を表現するための媒体の一分野だ。
情報を扱う快楽を扱う「メディア」、肉体能力の競争欲を扱う「スポーツ」、性欲を扱う「性行為」と一緒の部類だ。
これにたいしてゲーム性とは、欲求を表現するためのプログラムだ。「勝負」とか「意志決定」とか「運試し」とかだ。
このゲームとゲーム性の関係は、ストーリーとストーリー性の違いにも当てはまる。ストーリーが、「小説」「漫画」「映画」などの媒体であるのに対し、ストーリー性とは「起承転結」「展開」「結果」などを表す。
多くの人は、この「表現媒体」と「プログラム」の区別がついていない。Windows95が発売されたとき、ハードとソフトの区別がついていないおじさんが大量発生したが、それと同類だ。
区別がついたら、こんどは関係について解析しよう。
このハードとソフトの関係には、以下の2要素が原則としてある。
例えば、ゲームの中には「勝負・意志決定・運試しといったゲーム性」も、「起承転結・展開・結末といったストーリー性」も入れることができる。ストーリーもまた然り。
だが、ゲーム性が入っていないものはゲームとは言えないし、ストーリー性の入っていないものはストーリーとは言えなくなる。そして、いかにゲーム性を搭載しようが、ハードがストーリーなら全体的にはストーリーとして見られるということだ。
ゲームの本質とは何かという議論は津々浦々で繰り広げられ、百家争鳴の態を成している。
だが、このバードとソフトの関係論なら「あとは個人差レベル」という所までまとめることができる。
もし、RPGに新しい側面を考えているのなら、それはハードなのかソフトなのかを考慮してほしい。注意するべきことは、ハードが変質すれば、全体像が変質するということだ。RPGに新しい要素を加えたいという人は、よくこのハードをいじってしまう傾向がある。ロールプレイがキャラクタープレイに化し、演劇紛いになってしまう人はハードがゲームから演劇へと変わってしまったのだろう。
逆を言えば、どのようなソフトを入れようが、ハードがゲームであり、ゲーム性さえ備わっていればRPGは一応はゲームとして機能する。
一応は、ではある。インターネットがなくとも、パソコンはパソコンであるように。
ここに落とし穴がある。
ゲーム性追求とかストーリー性追求とかの運動は、基本的に原理主義運動だ。
その運動は、ゲームの中でゲーム性が、あるいはストーリーの中でストーリー性が希薄になった時点で発生するある意味自然な行動だ。だが、その反動はハードとソフトの区別がついていないと、結果は「原始への回帰」になり、ハードの機能は大幅に低下する恐れがあるのだ。
「RPGはゲームだ。だから、求めるべきものはゲーム性だけでいい」
RPやPに対する反動から、そう訴える人はいるだろう。
だが、その結果として発生したのは「原始への回帰」である原理主義の台頭だ。
トラベラーの功績を抹殺したのは、この原理主義だ。理由は後述する。
そして、このゲーム性原理主義はトラベラーのみならず、RPGに打撃を与えた。
ゲーム性が喪失したRPGが演劇紛いになるのと同様に、ストーリー性が喪失したRPGは、ウォーゲーム紛いになった。そして、ストーリー性追求派がRP、Pに走ったように、ゲーム性追求派はより明確なゲーム性を打ち出した別ゲームに鞍替えした。そうではないだろうか。
***
RPGを見捨て、TCGやウォーゲームに移った人間は、決してRPやPに堕落していった人たちではない。黎明期のRPGを支え、普及に努めてきたRPG第一世代の人たちではないのか。
彼らをゲーム感覚を持った本物のゲーマーだと言う人もいる。しかし、見捨てられた者たちから見れば、彼らRPG第一世代は「ゲーム性さえ追求できれば何でもよかった人たち」にしか過ぎない。
RPGを本質的に愛していなかった点では、ストーリー追求派と同じ穴のムジナだった。
RPやPは、確かに一時代の熱狂によってしか遊べない儚いゲームだった。
だが、彼らRP、Pを見捨てた第一世代の行動は、はたしてゲーム性を守る義挙だったのか。
この答えは、馬場氏のコラム人気投票にある。
ScoopRPG読者が選んだベストコラムは『キャラクタープレイ −あるいは傷つきやすい人々−』だった。
その反面、対極にある『パワープレイ −あるいはシークレットドアを探して−』の評価は低かった。
実はこのコラム、一見どちらも問題プレイヤーを糾弾しているようであって、内容は全然違うのだ。
『キャラクタープレイ〜』の方は、キャラクタープレイヤーがプレイに与える悪影響を指摘し、彼らの姿を露呈するのが目的だ。これに対して、『パワープレイ〜』の方は、パワープレイヤーの悪影響を指摘しながらも、その原因をRPGベンダにしている。
つまり、パワープレイは悪行ではなく、悪弊ということなる。ベンダの責任。ゲーマーは従っただけ。
これに対して、キャラクタープレイヤーは悪行になっている。本人の責任。
同じ、RPG衰退の原因であるにも関わらずにだ。
『熱血専用』というキャラクタープレイ専用RPGがあるが、エキサイトして周囲に迷惑をかけるのは本人のせいばかりではない。キャラクタープレイとて、ベンダにも責任があるのだ。
そのことを見抜いた上での投票結果ならいいのだが、単にパワープレイヤー批判が疚しいから敬遠されたという見方もある。『パワープレイ〜』自体は、「教育効果の重視」という価値ある提言をしたコラムであるなら、なおさらだ。
穿った見方をすれば、ScoopRPGに集う人はキャラクタープレイに厳しく、パワープレイには甘いということだ。
この扱いの差はなんだ。
なぜパワープレイヤーはかばってもらえるのか。キャラクタープレイヤーの方々は病理扱いされたのだ。パワープレイヤーも閉鎖空間に隔離せよと言わないでどうするのだ。
それは、ウォーゲーム出身の第一世代、ひいては原初のプレイスタイルは、みんなパワープレイヤーだからかもしれない。パワープレイヤーが正義だった時代もあったのだ。身内に1人2人いたって不思議ではない。
馬場氏のコラムを読めば分かるが、パワープレイヤーが出る原因は「戦闘のみが面白いゲーム」が他出しているからだ。『馬場コラム連載1周年記念 特別編』では、パワープレイヤーは戦闘行為が楽しいのではなく、楽しい「戦闘システム」を好んでいるのだと名言している。
これは、パワープレイヤーの根底が「ゲーム性原理主義」であることを示している。彼らは、RPGの中から、ゲーム性の高いシステムのみで楽しんでいるのだ。そのゲーム性原理主義者が、ゲーム性の低いシステムも共有しているRPGを見限って他のゲームに鞍替えしたのは、『パワープレイ〜』で指摘されたとおりである。
彼らの中に、ゲーム性原理主義の核である「原始への回帰」が起きたのだ。
RPGがRPやPに堕落していった最中、ゲーム性原理主義者たちははたしてどんな顔をしてRPGを脱退したのか。RPGの堕落を嘆き、憤然と去っていったか。
違う。TCGなどの新しいゲーム性に魅了され、惚けた顔して出て行ったのではないか。
彼らの脱退は、「義挙」などでは決してない。彼らの武勇伝など嘘っぱちだ。
彼らは、彼らの中にいたパワープレイヤーに同調したのだ。一部の過激派に紛れ、一斉逃亡したのだ。
とりあえず、パワープレイヤーの責任はRPGベンダにない。
パワープレイヤーは、RPGが存在する前からも、別のゲームに鞍替えした後もパワープレイヤーなのだから。
それをRPGベンダの責任にしているのは、ゲーム性原理主義そのものは肯定しているからだろう。
ダブルスタンダードという他ない。
僕は、パワープレイヤーを糾弾し、その根底にあるゲーム性原理主義を糾弾する。
彼らがキャラクタープレイヤーと同様に、ただの問題児なら、きつい批判をする程度でいい。
だが、彼らは長くRPG業界に在籍し、プロ・アマ問わず強い発言力を持っている人たちばかりだ。
業界をリードする立場にあった。
その彼らが、ゲーム性原理主義を貫くために、好都合なD&Dを推し、不都合なトラベラーを抹殺したのだ。
すべては彼らがリードしやすい業界を作るためにだ。
D&Dら第一世代のRPGは、ゲームでしかなかった。
「起承転結」「展開」「結果」などのストーリー性がまだ導入されていなかった時代のゲームだ。
ストーリー性がないゲームは、ゲームオーバーにならない限り無限にゲームが続けられる。D&D(特に赤箱)はレベルアップはあっても、「目標」のないゲームなのだ。「目標」がなければ、葛藤も責任も生まれない。意志決定の要素は希薄なのだ。
つまり、コスティキャン氏が提唱するゲームの姿に、D&Dはまだ達していないのだ。
RPGが、真のストーリー性を持ったのはトラベラーが登場したからである。
トラベラーが優れたゲームであるのは、限定された手段の中で、資源を管理し、目的を達成するという「意志決定ゲーム」の最初の雛形となったからだ。トラベラーがキャンペーンという要素を打ち出し、ゲームに連続性・関連性を持たせ、ただ遊べればいいという従来のゲームに、過去・現在・未来を連続して考えるストーリー性を持たせ、RPGをより高度なものにしたのだ。
つまり、トラベラーがトラベラーたる特色は、ゲーム性という縦軸にストーリー性という横軸を絡め、高いストーリー性によってゲームを高度にし、また高いゲーム性によってストーリーをより濃密にする。その按配のよさにあるのではないか。
ここでようやく、「もしトラベラーとD&Dの知名度が逆転していたら」というIFを提示できるようになった。
もしトラベラーがRPGの盟主となっていたら、RPGはゲーム性とストーリー性のバランスを保ったまま、意志決定システムとストーリーテリングを両立させた理想的なゲームになる可能性があった。
事実、トラベラーの潮流は『ルーンクエスト』、さらに『スターウォーズ』に受け継がれた。
さあ、ようこそ前途洋洋のRPGの世界へ……。
……とはならなかった。
何者かがその流れを遮断したからだ。
僕はそれをD&Dに固持したゲーム原理主義者に求める。
彼らこそ、RPGの未来を遮断したのだ。
***
黒田幸弘氏の『D&Dがよくわかる本』は良質の教本だ。
実際の影響力は分からないが、僕はこの本からD&Dに入った。
だが、僕がとてもお世話になったこの本の中に、ゲーム原理主義者が仕込んだ罠があった。
それは「第一章 ロールプレイングゲームの世界」に書かれた以下の箇所である。
◆RPGに勝敗はない
(前略)……というのはRPGには、勝った、負けたというような概念がないからだ。ゲームそのものは数人でやるものだから、ふつうのゲームでいえば、プレイヤーのあいだに競争が起こるはず。でもRPGでは、競争がほとんど起きないのだ。
なぜだろう、なんて悩まなくても、ちょっと論理的に考えればすぐにわかる。だってRPGってのは、本質的には小説や映画なんかと同じなのだ。ひとつのストーリーがあって、主人公たちはその流れにそって冒険を進める。そして目的はお話を楽しむことなのだから、ゲームの過程が面白ければそれでいいのだ。
「RPGに勝敗はない」「ゲームの目的はお話を楽しむこと」「ゲームの過程が面白ければいい」……後の日本RPG界においてドクトリン(教条)となった要素である。今でこそ、批判する人も多いだろうこれらのドクトリンが、この本が出た当時はRPGの性質を最もよく具現した言葉として崇められていたのだ。
この言葉を、トラベラーを経験した者が口にするはずがない。馬場氏がトラベラーの真価を提示した『”カルカソンヌ”とキャンペーンゲーム』を読めば、これらドクトリンがいかにRPGの真髄から外れているか理解できる。
しかし、このドクトリンは黒田氏独自の意見だったのか。
いつからこの概念が提唱されたのか、僕はわからない。だが、このドクトリンは多くの人に波及し、後の和製RPGに重くのしかかったと見ている。同調者はいたのだ。
D&Dは過程を楽しむゲームだ。
なにしろ、ストーリー性がないゲームなのだから、「目的」のために動く必要がない。
D&Dしか市場になかった時代はそれでもいい。
だが、続くトラベラーの時期にはこのドクトリンは死文化しなければならない。
「目標達成のための意志決定ゲーム」であるトラベラーと、「冒険を楽しむための過程試行錯誤ゲーム」であるD&Dとでは、内に抱えるゲーム性が異質なものと化している。
ここでゲーム性の違いを見抜き、ストーリー性のあるゲームは「目標達成のための意志決定ゲーム」が相応しいとした人ははたしていたのだろうか。
少なくとも日本にはいない。
それどころか、「冒険を楽しむための過程試行錯誤ゲーム」であるD&Dスタイルを後のゲームにも採用した。
この採用に、僕は黎明期のRPG指導者がウォーゲーム出身者ばかりであったことが関係していると思う。彼らがRPGを「キャラクターのいるウォーゲーム」と認識するのは当然であるし、D&Dに限っては正解である。だが、トラベラーを「キャラクターのいるウォーゲーム」と理解するのは不正解だ。
ここにゲーム性原理主義者の罠があった。
彼らは、あくまでも「キャラクターのいるウォーゲーム」がやりたかったのだ。
そして、キャラクターを駆ってゲームを楽しむ過程に特化したのがD&Dであり、目的追求のために過程を制限したトラベラーはウォーゲーム好きには我慢ならないゲームだったのではないか。
馬場氏はパワープレイの根底を「戦闘システムのみが充実してるから」と指摘するが、なぜ「戦闘システムのみが充実したゲームばかり出るのか」という点にまでは論じていない。
僕はこう推論する。
黎明期のRPGゲーマーにとって、RPGはあくまで「キャラクターのいるウォーゲーム」である。故に彼らは「戦闘にゲーム性を求めてデザインした」のではくて、「ウォーゲームを堅持するために」戦闘偏重RPGを作ったのだ。ウォーゲームのないRPGなど想像だにできなかったのだ。
彼らのハードはウォーゲームだった。彼らはウォーゲームを守るために、ウォーゲームではないRPG……トラベラーに危惧を抱いていた。彼らに「原始への回帰」が起きた。
トラベラーを抹殺しなければならない。
そのために、彼らが垂れ流した方便こそが、「RPGに勝敗はない」、「RPGはお話を楽しむためにある」「過程がよければそれでよい」である。これに「ルールは自由に改変してよい」「背景世界は無視してよい」という追い討ちの言葉をかけ、トラベラーの存在意義を次々と無効化し、封殺。歴史から抹消したのだ。
これでゲーム原理主義者が、なぜD&Dにこだわるか分かったと思う。
彼らの心はウォーゲーマーであり、RPGに求めたのは「キャラクターのいるウォーゲーム」だったのだ。
彼らこそ、パワープレイヤー量産と、それに伴う参加者人口減少の原因となった。
ではなぜ、ゲーム性原理主義者はストーリー性を嫌うのか。
別にゲーム性が追求できるのなら、トラベラーみたいな意志決定ゲームでもいいじゃないか。
……ところが、彼らにはそれができないのだ。
彼らはD&Dを売り出すにあたって、もう1つ禍根を残すやり方をしたのだ。
それはコンピューターRPGへのおもねりだった。
折りしも、D&D赤箱が出たのと同時期にファミコンRPGの元祖である『ドラゴンクエスト』がでた。
D&Dを推すゲーム性原理主義者は、このゲームに飛びついた。コンピューターRPGを卓上で再現するのがTRPGですよというキャッチフレーズで、多くの人がTRPGを知った。現在、TRPGを「非電源」と称するのもこの影響なのだろう。
だが、ドラゴンクエストの作者、堀井雄二がD&Dを参考にしなかったことは、『次世代RPGはこーなる!』(多摩豊著 電撃ゲーム文庫)で明らかだ。彼はコンピュータRPGに初めてストーリー性を盛り込んだことで有名だが、その原点はトラベラーではなく、彼がその前に手掛けた『ポートピア連続殺人事件』などのアドベンチャーゲーム(AVG)にある。
トラベラーが示すストーリー性と、AVGが示すストーリー性は違う。
トラベラーは、行った選択によって運命が左右される「不可逆性」のストーリー性だ。これに対して、AVGのストーリー性は、正しい選択をしなければ進展せず、選択までに無限の猶予がある「ページめくり型」のストーリー性だ。無論、「ページめくり型」ストーリー性には意志決定の要素は薄い。
ゲーム性原理主義者が飛びついたのは、このドラクエが持つ「ページめくり型」ストーリー性だった。
彼らはしきりに、「物語世界への参加」、「あなたも冒険ができる」と「ページめくり型」を推し進め、D&Dに加味していった。目標のないD&Dには、そちらの方が証に合っていたからだ。
こうして、RPGでストーリー性と言えば「ページめくり型」が定着し、いつでも自分たちが好きなように物語に介入できるという不文律がまかり通ってしまった。「不可逆性」のトラベラーが彼らに受け入れられるはずはなかった。
トラベラーがRPGに功績を残したのも、それでいて評価が低いのも、「目的達成のための意志決定ゲーム」というゲーム性と、「選択に運命を分かつ不可逆性」というストーリー性を持っていたためだ。
だが、あくまでも「キャラクターがいる過程重視のウォーゲーム」を楽しみたかったウォーゲーム出身者は、様々な方便でトラベラーを骨抜きにし、コンピュータ−RPGにおもねることで、そのストーリー性を歪めたのである。
かくして、日本RPG界はゲーム性原理主義者(この時点では、まだ潜在的ウォーゲーマー)の支配下になった。
彼らが「初心者にも楽しめるキャラクターウォーゲーム」を目指し、「ページめくり型ストーリー」を加味して作ったのが、いわゆる「初心者用RPG」だったのではないか。
そして、彼らと同志(ウォーゲーム出身者)のリードによるRPG時代が訪れたのだ。
これが、日本のRPG実史である。その実史が、決して前途洋洋ではなかったのは、現状を見れば明らかだ。
後にゲーム性原理主義者は、ミスリードのつけを払わされることになる。
確かに、彼らが提供したスタイルはトラベラーを推し進めるよりも効率的に参加者人口を増やした。
だが、彼らが用意した「初心者用RPG」のほとんどが、熟練ゲーマーの教導なしにはプレイができない代物だった。そのボロを繕うように、「ルールは自由に改変してよい」、「設定は自分で作るもの」を連呼したのは、日本全国どの卓でも、ゲームバランスを保持できる熟練ゲーマーがいるという過信が裏にあったのではないか。
そして、それ以上に彼らは世間知らずだった。彼らにとってRPGはウォーゲームの一形態に過ぎず、ウォーゲームのゲーム性さえサポートしていれば事足りると思ったのだ。
もちろん、それは幻想だった。
まず、彼らがコンピューターRPGや、ファンタジー小説などから集めた新規参入組はウォーゲーマーどころか、ゲーマーですらなかった。AVGは進化する過程で、その主目的を「物語を解決する」ことから、「物語を読み進める」という方向に転換し、ゲームからヴィジュアルノベルへと変化していった。CRPGは背景世界の規模が拡大し、ゲームをクリアすることから、ゲーム世界を堪能することが主流になった。コンシューマーの世界では、アクションの要素がないゲームがゲーム性を主張する時代ではなくなってきていたのだ。
結果、現在RPGはゲームとしてより、ストーリーメディアとしての色合いが強くなっている。
新規参入したゲーマーは、ウォーゲームなどしたくないのだ。ストーリーメディアとしてのRPGを望んだのだ。
「キャラクターのいるウォーゲーム」がしたいゲーム性原理主義者にそんな彼らへの用意などあろうはずもない。ハードが違うのだ。
この状態になって、ゲーム性原理主義者が取った行動は何か。
RPGを見放し、TCGに走ったのだ。
散々、RPGの存在そのものを「自由に改変した」挙句にだ。
繰り返し言う。
日本のTRPGを「最初に」ダメにしたのはウォーゲーム出身のゲーム性原理主義者だ。
彼らがトラベラーを見捨てなければ、ここまで悪くはならなかった。
これが「もしトラベラーとD&Dの知名度が逆転していたら」というIFを唱えた理由である。
***
トラベラーは荒削りで、難解で、しっくりこない要素が実に多い。
それでも、トラベラーはRPG全史に載るだけの価値は十分あるんだろう。
トラベラーが残したストーリー性は、RPGひいてはゲームの決定的要素になった。
その中から、「不可逆性型」ストーリー性を持った作品も誕生している。僕は『ガンパレードマーチ』こそ、トラベラーの遺伝子を正当に受け継いだ後継者と目しているが、珍説だろうか。トラベラーが残したストーリー性は、見事に花開いたのだ。
ただし、トラベラーの故郷であるTRPGでは絶滅したから、その花は徒花だった。
ガンパレはトラベラーの後継者だとしても、RPGではない。
もうRPGをゲームと呼べる材料など、どこにもないかもしれない。
21世紀になって、CRPGは完全にストーリーメディアに変質している。『ファイナルファンタジー』を手掛けた坂口博信が映画界に進出したのが、それを裏付ける決定的な事例になった。さらにオンラインRPGの登場によって、RPGはコミュニケーションツールにもなった。
対して、TRPGはゲームメディアでしかないTCG、ウォーゲームに取って代わられた。最近出ているRPGのほとんどは、全員にパワープレイを強いる「プレイングゲーム(PG)」ばかりだ。
その中で、意志決定ゲームの雛型であるトラベラーが再販された。
砂一粒の希望である。
この砂一粒を守れる人たちは、今日本でどれだけいるのだろうか。
あるいはまたしても、踏みにじられ、封殺される憂き目に遭うのだろうか。
トラベラーの誇りは、ゲーム性一辺倒だったRPGにストーリー性を導入し、意志決定というゲームシステムを垣間見せたことにある。
意志決定は他メディアのゲームでは実現しがたく、しかるにRPGの存在意義であり、宝である。
僕はゲーム性原理主義者を「本質的にはRPGを愛していない人」とした。それは彼らが、他のゲームとの融和を図るあまり、RPG特有の存在意義である意志決定を蔑ろにしたからだ。
これから、RPGはどう生きようか。
他メディアから独立し、孤独で堅実な文化を築いていこうか。
それとも、これまで通り他メディアに依存し、膨張と過疎化の歴史を繰り返そうか。
「何をRPGの宝にするのか」によって、それは決まる。