うがつもの
回転翼(kaitenyoku*at*www.fact-mail.com)
言うまでもないことだが、ScoopRPGに居候する以上、先達である馬場秀和氏の存在は無視できない。
お便りでも馬場氏との比較で語る人はいるもので、由々しきとまではいかないけど常に考慮させられる人だ。
そもそも、馬場氏に限らずRPGの論説をやってる人のほとんどが腕自慢のゲームマスターであり、老練なセッションハンドリングを得意としている。当然、問題児の扱いも手馴れているだろう。そういった人たちと肩を並べてコラムを書くには正直、人生経験が不足している。人間に対する洞察の足りない青臭い文章ができるだけだ。
それは仕方ない。無理をすれば身の丈を越えて自分が崩壊するだけだ。
だから、僕は自分が未熟であることを承知で、経験者たちに遠慮なく直球でぶつかることにした。
今回は年末ということで、今まで懸案してきた「RPGの多様性」をひとまず決着づけたい。
ScoopsRPGに投稿を開始してから半年、多様性についてはいい意見が出たし、モチベーションも上昇してRPG以外のゲーム、特に今までRPGゲーマーにとっては鵺のような存在だったコンピュータゲームの本質を学べたのは大きかったと言えよう。
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1:多様性をわけるもの 〜「保証」という大前提〜
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「多様性」なる言葉はそれ自体、実に蒙昧で不確定な形状の代物だ。
正直、僕にしたってそんなに考えて用いた言葉ではないが、僅かながら誘い水にはなったようだ。
今まで、RPGの多様性を論じる際には、ゲーム性とストーリー性、パワープレイとキャラクタープレイ、論理と交渉、システムとロールプレイと、常に表裏を比較する手段が取られてきた。だが、その解析では2つの性質を連結する要素が抜け落ちがちで、結果としてものの片面しか見ない視野狭窄を起こさせた。
専門用語を使いすぎたかもしれない。RPGのメカニズムを解析するには難解な修辞だったと言えよう。
従来の論議を見るに、どうやらみんなが想定する「多様性」は二種類あるらしく、互いが相容れない存在に見えるようだ。
だが、どちらも同じRPGを論じているのだし、RPGはその二種類を相容れて存在している。
こういう状態を「鶏が先か、卵が先か」と呼ぶ。こうなったら人は堂々巡りをする猿となる。
この際、同じ性質から比較した方がトータルに見られるだろう。
試行錯誤を繰り返して、ようやく我流ではあるが一定の定義がまとまるようになった。
RPGひいてはゲームにおける「多様性」の根源は以下の2種類に区分できるのだ。
A.システムで保証された範囲内での多様性
B.システムに保証されていない予定外行動での多様性
「保証」あるなしの違いだ。前者を「多様性A」、後者を「多様性B」とする。
この「保証」とは、「行動してもエントロピー(崩壊)が起きない」保証である。コンピュータゲームでの崩壊はバグ乃至故障であり、TRPGではプレイの中断、手詰まり、ゲーム続行不可能になる状態になることを意味する。両者ともに商品である以上、崩壊は商品価値を下げることを意味するので、デバッグを行って崩壊を防ごうとする。
また、この「保証」は、ゲームを快楽たらしめている「醍醐味」を与える装置でもある。
ゲームが参加者を楽しませる道具だとしたら、そのエンジンは「どんな楽しみ方を与えるか」という醍醐味となる。言うまでもなく、楽しくないゲームなど気の抜けたビールも同然だから商品として売り出す側は必至になって醍醐味を搭載しようとする。醍醐味が少なくなればそれだけ賞味期限が短くなるから、必然的に複数の醍醐味を混合したりして多様性が生じる。
この「多様性A」「多様性B」はともに「崩壊を防ぐ」「醍醐味を与える」ための保証である。
すべてのゲームは、多様性A乃至多様性Bの領域内で、その中身を討議、試行錯誤、実践しているのだ。
この2種の多様性について、章を分けて解題しよう。
「多様性」と「自由度」とは似て異なる存在である。
多様性は「崩壊を防ぐ」「醍醐味を与える」という前提のために少し制約のある存在だ。
その制約すらなく、崩壊や喧嘩、あるいは犯罪まで許容している存在が自由度なのかもしれない。
語彙の違いだが、少なくとも多様性なる言葉に「自らをもって由とする」意味はない。
「多様性」と「汎用」も違う存在だ。
汎用は言わば統一規格であり、単一のシステム乃至ゲーム性がすべてのサプリメントを規格している存在だ。
言わば、自由とか多様性などは、本来汎用にはないものなのだ。
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2:多様性A 〜安全、確実な定命あるゲーム〜
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多様性Aは「システムで保証された範囲内での多様性」だ。
ウォーゲーム、コンピュータゲームなどのゲームメディア出身者が考える多様性はこの「多様性A」の範疇に入る。
多様性Aは、崩壊を防ぐ手段としてプログラム量、データ量、そしてそれら情報をすばやく引き出す処理能力に力を注いでおり、この能力では圧倒的にコンピュータが有利だ。また、CG技術の発達により、ヴィジュアルという点でもRPGを大きく引き離している。情報量、処理能力ではRPGがいくら多様性Aを追求しようとも、コンピュータはそれをいともたやすく追い越してしまうのだ。
今までRPGで情報量、処理能力と言えば、いかに世界観や戦術コマンドを組み込み、ダイスロールを工夫するなどしてきた。だが、いかに工夫しようがその基盤が「量」と「速度」では、コンピュータゲームと真っ向勝負になってしまい、RPGの方がバグの連鎖で破綻する。或いは、あまりの煩雑さに求心力を失うだろう。
原始的手段を用いるRPGは、多様性Aの分野では技術的にどうしても太刀打ちできない。僕は『ミレニアムズ・エンド』でそれを痛感した。
『ミレニアムズ・エンド』は馬場秀和氏の解説でお馴染みのゲームだが、入手は困難を極めた。アメリカのゲームショップ店長とコネを結んで、中古を売ってくれる人を仲介してもらってやっと購入できた。命中精度を決めるラミシートが一枚しかないので、セロファンのシートに手書きで複製したものだ。
それだけやって、複数の(同世代の)友人に馬場氏の解説をコピーしてプレイに誘ったが、誰もが敬遠した。
そりゃそうだ。あれほど複数の段階を踏むダメージ処理など、和製RPGしかプレイしたことのない友人にとっては理解不能だった。結局、ミレニアムズ・エンドをプレイする機会は未だに訪れず、正直言えば僕自身敬遠する。よほどのチュートリアルをこなし、ゲーム感覚を磨かないとプレイは困難かもしれない。
だが、こんな煩雑なシステムをコンピュータで処理すればどうなるか。
……一瞬だろう。
ミレニアムズ・エンドが広くRPGゲーマーに受け入れられたゲームならば、自動処理ソフトが開発されているだろう。卓上にノートPCを置き、ダイス目を入力するだけでダメージを算出してくれるのだ。ミレニアムズ・エンド界にかつてないほどの快適なプレイが可能になる。だが、そのプレイは恐らく至って味気ない「俺たちは快適さを得たが、何か失ったような気がする」というプレイになるだろう。煩雑であろうとも、アナログで処理してこそRPGなのだ。
プログラム量、データ量、そして処理能力の面においてコンピュータと張り合っても得るのは敗北感と喪失感だけだ。
実の所、プログラム量、データ量、処理能力は「多様性A」の皮相的な要素に過ぎない。
「多様性A」の本質は「どこまで、システムに保証された行動が取れるか」だ。
多様性Aの長所は「安全」であり、面白いパズルであれば「確実」でもある。
プログラムに従って行動すれば崩壊するようなことはなく、パズルに成功すれば娯楽品として支持される。
プログラムによって安全を保証された範囲内の中なら、いくら自主性、自由度、多様性を主張しても崩壊は起きないから一向に構わない。お茶をこぼした、転んで壊したといった不測の事態を除いて、プレイヤーが自発的に崩壊を招くような事態が圧倒的に少ないのだ。コンピュータゲームはこの利点を活かして、大規模なユーザーに格差なき「保証された」ゲームを提供できる。この「完成度」こそがコンピュータゲーム最大のセールスポイントである。
もちろん、その完成度ゆえに遊び尽くすのに限度が出来、多様性Aのゲームは寿命を持つ存在となった。どのベンダも大規模販売をしている以上、ユーザーの前には清新なゲームが次々と現れ、1つのゲームに固執する意義がなくなっているのだ。RPGのように、10年も20年も愛されているゲームなど1つもない。
事実、消費することに慣れきったコンピュータゲームユーザーは贅沢だ。制作費は年々増加しているが、それ以上にユーザーの多様性への欲求は過大に膨張する一方である。今や安定した売り上げを出すブランドを持ったベンダでないと参入はどだい無理な話である。
いずれゲーム業界も、自動車業界に倣ってメガコープによる併合、列強化が進むだろう。
さもなければ、美少女パソコンゲーム業界のようにインディーズとなるしかない。
多様性Aのゲームは、どうあがいても消耗品にしかなれないのだ。
コンピュータゲーム業界は誰もが承知していることだろう。
なぜ、多様性Aのゲームは、ゲーム寿命を削ってでも安全、確実な完成度にこだわるのか。
多様性Aの道、すなわちプログラム量、データ量、処理能力を追求していけば、その膨張、複雑化は留まる所を知らない。それを包括できるメディアはもはやコンピュータ以外に有り得なくなった。コンピュータの記憶媒体は本に比べたら容量、処理能力に優れた分、繊細で故障に弱く、これまた専門的な技術がいる機体なしでは再生できないという欠点を持つ。
壊れたらそれまでだ。
また、プログラム自体も精密で繊細な代物であり、ちょっとしたミスがゲームバランスを崩すほどのバグを発生させることもある。
一旦崩壊したら最後、ユーザーにそれを修復させる能力などまったくない。
そうなると、故障からくるトラブルはすべてベンダに回ってくるだ。そのトラブルシューティングにかかる労力、コストだけでも相当な損失を生む。ただでさえ制作費が高騰している業界では、企業生命に関わることだ。
多様性Aを追求したコンピュータゲームは、「誰でも安全、確実に楽しめる」のと「壊れたり、飽きられたりしたら最後」という両刃の剣ゆえ、商品以上の存在には成りえないのだ。
RPGで多様性Aと言えば、ほとんどの人がプログラム、データ、処理能力のバリエーションを差していると思っている。
だが、それは多様性Aの本質ではない。「どこまで、システムに保証された行動が取れるか」こそが多様性Aなのだ。ゲームの方向が単一的ならば、どんなにプログラムやデータを組んだとて、単一目的に有用なものしか選ばれない。
何度も言う。「設定はシステムが保証するゲーム性の範囲内しか機能しない」のだ。
多量の情報量を活かすなら、ゲーム性そのものを複数搭載しなくてはならない。
コンピュータゲームは、寿命を覚悟でゲーム性を単一化しているのだ。
RPGはそうもいくまい。次の章で示す多様性Bを活かしたいと思うのであれば。
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3:多様性B 〜イメージ、創意工夫の復旧ゲーム〜
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RPGがよく想定する多様性は、「システムに保証されていない予定外行動での多様性」である「多様性B」だ。
ファンタジー小説などのストーリーメディア出身者の考える多様性はもっぱらこの多様性Bである。
多様性Bを支えているのはイメージであり、それを生み出す創意工夫である。
ゲームにとって何より怖いのは崩壊だ。イメージや創意工夫は無秩序、危険につながる要素であり、安全のためには何としてでも慎んでもらいたい存在である。だが、ただ与えられたゲーム性を受け続けるだけでは満足しないユーザーは多い。崩壊スレスレの境界を渡るスリルもあれば、崩壊の中に他者が見逃していたゲームの醍醐味を見出す快感もある。決定的な崩壊さえなければ、危険はむしろスリルであり、新しい醍醐味となるのだ。RPGに至っては成長要因ですらある。
「安全、確実なゲーム」を目指すコンピュータゲームには、裏技というバグを通してでしか「崩壊のスリル」を味わう手段がない。裏技は基本的にアンダーグラウンドであり、その波及はゲームそのものの規模に対して小さい。昔のコナミコマンド(左右左右上下上下というヤツね)の時代に比べて、今のゲーマーはゲーム情報に敏感ではないので、その波及は狭まる一方だろう。『ガンパレードマーチ』主要登場キャラ22人全員使用可能コマンドなど、コナミコマンドに比べてどれだけ知名度があろうか。
その意味では、原始的手段を用いるRPGは多様性Bを追求にはうってつけのゲームメディアだ。
なにしろ「壊れない」。崩壊があったとしても、せいぜい喧嘩で済む。ルールブックとダイスがあれば、またいつかはプレイできるのだ。壊れたゲームソフトはどうあがいてもプレイできないのと比べれば、何と恵まれた環境か。書物メディアは視覚メディアより修正がしやすいというメリットもある。物騒な喩えだがプレイが原因で殺傷事件が起きても、アンチキャンペーンに対応できる柔軟さが書物メディアにはある。視覚メディアはその完成度故に変更がきかないから、一旦アンチキャンペーンが起これば、戦って市民権を得るか発売禁止にして封じるしかないのだ。
多様性Bは、この壊れない利点を活かして、ゲーマーのゲームにかける思い入れを最大限ゲームに搭載できることを目指したデザインがされてきた。アルゴリズムでは処理できない参加者同士の会話や、舞台の状況説明、そして予定外行動の処理がRPGでは搭載可能なのだ。この「保証していない行動を取っても大した崩壊が起きない」「崩壊したって修正がきく」というのが「イメージ」を長所とする多様性Bの存在意義なのだ。
RPGをして「想像力によって無限の広がりを見せる多様性」と称する人がいるのは、実はこの多様性Bに依拠しているのだ。
多様性Bの本質は「予定外行動による崩壊をどれだけ修正、復旧できるか」である。
原始的手法を取るRPGは、ユーザーが自発的にゲームを崩壊させ、修正、復旧させることが可能なのだ。
Bのみのメディアはあまり存在しない。人と人が寄り添って何かをすれば、そこに自ずから了解事ができ、ルールができるからだ。たって言えば、「会話」そのものはBに入るかもしれない。『ヴァンパイア・ジ・マスカレード』を本当にルール一切未使用の会話のみで行えば、Bのみのゲームができるだろうか。
もちろん、多様性Bも万能ではない。
多様性Bは崩壊に対する修正、復旧がしやすい分、崩壊そのものを防止する能力が極めて低い。
ユーザーは知識、経験、ゲーム感覚、器用さ、時間の都合、思い入れの差などによって実力やモチベーションがまちまちである。モチベーションを完全に統制して、誰にも均一のゲーム環境を提供するのが多様性Aの手法で、多様性Bはユーザーのアドリブで調整する手法を取っている。
その手法ゆえ、多様性Bの崩壊は無秩序化、無目的化、無規範化といった人的崩壊となる。
実の所、多様性Bは単独では「ゲームと呼べるかどうか分からない」曖昧とした存在である。参加者のモチベーションと連帯意識(欧米人はエチケット)で辛うじてゲームとしての体裁を成しているのだ。そうなるとゲームそのものは頑丈だが、今度はユーザーの方が消耗してしまう。
ユーザーの「復旧能力」が低いと、ゲームはすぐに無秩序化する。そうなると混乱したプレイヤーは目先のシステムを楽しむことに特化し無目的化するか、その場の興を盛り上げるのみに終始し無規範化する。いずれにしても崩壊の連鎖反応だ。
RPGが度々人間関係でトラブルを発生させるのは、プレイヤーが幼稚だとかじゃなくて、多様性Bを搭載しているゲームとして当然の脆弱性なのだ。
多様性Bの体現者として『ディプロマシー』があるが、あのゲームをRPGより幼稚な情緒の持ち主がプレイしているとは到底思えない。参加者の実年齢、プレイヤー年齢、社会性の成熟度のどれもがRPGより大人だと思う。それでもにも関わらずディプロマシーは全世界のゲームでも屈指の人的崩壊多発ゲームなのだ。
「修正、復旧がしやすい」という利点が仇となって、崩壊防止技術、すなわちディベロップの技術が発展しなかったのもRPGの欠点だ。山のようにエラッタのつくゲームはRPGだけだろう(もっとも、情報誌に毎号幾多のエラー情報が載り、修正ツールを配りまくっている昨今の美少女パソコンゲームの方が、完成度を求めるコンピュータゲームなだけに大変だとも言えるが)。
重箱の隅をつつくような一例だが、ルールブックの末尾にはテストプレイヤーがすらりと並んでいる。彼らがどんな基準で選ばれ、どの程度ゲームに貢献しているか誰も知らない。だが、おそらくあまり役には立っていないのではないか。デザイナーの伝手でアマチュアが集められているようだが、徒弟制度みたいな風習な息づくRPG業界で、プロのデザインした作品に厳正な評価をするプレイヤーなどいるのだろうか。かしこまった「お客さん」になるのが関の山ではないか。彼らが言えるのはせいぜい「面白かったです」程度のものだ。
或いは、マンチキンプレイヤーばかり集めて、極端なプレイでどんな崩壊をするのか試験したというベンダはいるだろうか。善意だけでは良質のゲームはできない。どんな悪意をぶつけても、狙い通りのプレイをしてくれるのならゲームとしては一先ず合格なのだが、ベンダもそんなタフじゃないだろう。
RPGデザイナーと言えば、多様性Bを追い求めて次々とアイディアを投入するタイプ(俗に「文系デザイナー」と呼ばれている)が圧倒的に多いが、それだけではゲームデザインは失格と言えよう。ゲームバランスを考慮し、アイディアをどれだけシステムが保証させ、安全、確実なゲームを作るかが問われる多様性Aにも対応できなければ、ゲームの完成度は低いままとなってしまう。そんなゲームはパワープレイヤーに蹂躙されるかキャラクタープレイヤーに蔑ろにされるだけだ。
多様性Bに依拠していたら、相次ぐ崩壊に対応しきれなくなるだろう。
だが、原始的手法であるRPGは、コンピュータに競合できるほどの多様性Aは追求できない。
RPG業界はこの両者のバランスを維持するどころか、意識すらせずに分裂症的な崩壊を起こしたのだ。
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4:分裂症を克服して
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馬場氏はかつて『”RPGこそ「ディプロマシー」の子孫”(そうだろうか?)』で本コラムと似たようなことを解説してくれた。明らかに僕の方が後発だから、かの記事が意識下に影響していることは間違いない。事実、このコラムはこの壮大な例え話に対する回答になる。
正直、このスターウォーズを昔話だとは到底思えない。
僕の置かれた立場を喩えるならば、馬場氏いう所の「極右極左」がいまだ争っている辺境の惑星に降り立ったコンピュータゲーム出身の異星人ということになる。すでにコスティキャン氏の調停で和解した人たちはいずこかへ去り、帝国軍残党は対戦格闘ゲームの再現を、反乱軍残党は座興のための演技に走っていた(D&Dもディプロマシーも、粗悪なコピー品に取って代わった)。
その精華として、「回転翼さんはウォーゲームの本質を理解していない。D&D3eやウォーハンマーをやるべし」とか「回天翼さんはウォーゲームばかりやってるからルサンチマンがあるのだ。ヴァンパイア・ジ・マスカレードやるべし」とか言われるのだ。
どっちなんだ。むきき〜。
どうしてこうなるのだろう。
今まで、システムとロールプレイを統括する思想基盤がRPGには不足していた。
RPGが想定する多様性が二種類あるというのは前述の通り。
だが、そのほとんどが「自分はこれが好きなんだ」という観点から領域分けされたものばかりだと言える。それがゲーム性とストーリー性、システムとロールプレイ、パワープレイとキャラクタープレイ、理系に文系と言ったスラングを産み、本来なら同一的存在の二面を乖離させたのだ。
この乖離が、馬場氏の上述コラムでいうところの「極右極左プロパガンダ」を生み、後の世にまで続いているのだから迷惑このうえない。
RPGは多様性AとBを併せ持ったゲームだが、それはAとBがゲーム内に点在してるということではない。
ある箇所がシステムで、別の箇所がロールプレイで処理するという考え自体間違っているのだ。
RPGは、「システムで保証する」多様性Aと「予定外行動で保証する」多様性Bが密接に絡まっているゲームなのだ。
そのために、2つの側面を統括して見る視点が必要なのだ。
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5:なぜRPGはダイスなのか 〜ダイスロールをうがつもの〜
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一見、多様性Aの領域に見えて実は多様性Bも含んでいる要素は多々ある。
その代表が、誰もが処理能力の問題だと見ているダイスロールだ。
RPGデザインを経験した者なら誰もがダイスロールを研究しただろう。誰もが期待値を熟知し、その加減に力を注いだはずだ。
もっとも、RPGが使うダイスの出目確率及び期待値などはたかが知れているので、データとして誰もが持っててしかるべきものだ。そんなものないとなると、期待値などと喧伝する人は数秘術カルトの一員なのか、まったくの数学コンプレックスなのだろう。まあ、そんなことを言いたくてダイスロールを俎上に上げたのではない。
問題なのは、なぜダイスなのかということだ。
なぜダイスは乱数装置として支持され続けているのか。
おそらく、RPGは今後10年後も20年後もダイスを採用し続けるだろう。コストや入手のし安さ、携行の便利さなどあるだろうが、現行のRPGシステムには明らかに機械処理した方が利便性に優れたゲームも多い。歴史上多くの発明が利便性から生まれたのを踏まえると、この段階では利便性こそが第一の利点となるだろう。
ならば、ダイスの役目を終わらすアイディアはある。
それは携帯電話のコンテンツに電子ダイスを入れることだ。
携帯電話なら誰もが持っているし、通信により他のゲーマーにも出目が分かる。ダイスのごまかしも不可能となる。
だが、第一の利点は数値計算を自動化できることだ。これで処理速度は決定的に速くなる。どんな煩雑なダイスロールも苦にならなくなる。
さあ、これでもうダイスなどというアナログな道具を使う気なくなっただろう。
……えっ、嫌? やっぱダイス振った方がいい?
なんでかな。説明してくれないかな。
実はこの時点では、RPGゲーマーはまだ携帯ダイスにはなびかない。
ダイスには携帯ダイスにはない「ブランド」がある。
実はこのブランドこそが、多様性Bの範疇に入るのだ。
ダイスというのはアナログな道具なだけに、機械にはない精神的な側面がある。
非科学的なのにダイス運というを気にしたり、ロールに気合を込めたりする人はゲーマーにはとても多い。
時計にいつまでもアナログ時計が存在し続ける通り、ダイスにはアルゴリズムには存在しない「イメージ」がある。ダイスは「出た数値」と「出ていない数値」が同時に提示でき、ものをイメージとして捉える右脳に働きかける要素があるのだ。この「イメージ」があってこそ、人はダイスの出目に処理結果以上の思い入れをするのだ。このダイスロールにかける情念こそが多様性Bが持つ「イメージ・創意工夫」の領域なのだ。この右脳から来るイメージによって、判定が人為的であることを自覚させプレイに白熱させるのだ。
この現象はコンピュータゲームにはない。コンピュータゲームのアルゴリズムはどうしても非人為的であり、右脳に働きかける要素がないのだ。そもそもコンピュータゲームは成否判定にイメージなど求めていない。
「処理能力のイメージ」に関する要素は非電源ゲーム特有のパズルだと言える。
ダイスロールをアルゴリズムと同一視してはならない理由はそこにある。
今までRPGデザイナーは「速さ」「快適さ」「明解さ」の三要素に的を絞って成否判定をデザインしてきた。
だが、それだけでは何のためのダイスか明確な理由がない。携帯ダイスの方が便利だし、そもそも「何でコンピュータでできるのを紙とダイスでやるの」という考えを助長している。かと言って、文系デザイナーがやるようなあれこれ修正値てんこもりのダイスロールをやれば、これまたコンピュータゲームと競合する。
それというのも、成否判定のダイスロールを誰もが処理能力すなわち多様性Aの領域だと誤解し、「イメージのよさ」という多様性Bを考慮しなかったのが原因と言える。処理のみに重点を置きすぎた結果、ダイスロールから意志決定の要素を抜いてしまったのだ。その結果、予定外行動が顕著に出るストーリー部分ではダイスロールの意味が希薄となる。
考えてみれば、戦闘シーンではきっちりとダイスロールの規定を求めるのに、ストーリー部分ではダイスロールに関する規定があまりに曖昧だ。ゲームマスターがどういう基準でダイスロールを規定しているのか、ダイスロールが生きているのか死んでいるのか、ゲームマスターはダイスロールを尊重しているのか軽視しているのかまったく不明だ。
この不透明さが、ダイスロールによる「予定外の事態」という要素を希薄にさせ、ストーリーを一本道に錯覚させるのだ。
そんなダイスロールに飽きて、言いくるめでダイスロールを代用する輩が出るのも当然だ。
RPGは今こそ、単なる成否判定の道具としてではなく、ダイスロールによるイメージのよさに沿ったダイスロールシステムを考えるべきではないのか。そうでなければ、いずれは電子ダイスにするべきだ。
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6:マクロな視点
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「システムによる保証」の多様性Aと、「予定外行動による保証」の多様性BはRPGでは密接な関係にある。
理想的には「システムによる予定外行動の保証」や「予定外行動によるシステムの保証」になるのがいい。
システムとロールプレイは相反する存在ではなく、互いが欠点を補えるようバランスの取れたゲームでなければ、何のために帝国軍と反乱軍が和解したのか分からない。
今までシステムの問題、ロールプレイの問題だと見てきたものが、実は同じ本質によってつながっているのではないかという視点をもっと持ってほしい。そうすることによって、今までプレイ中に散在していたゲームの醍醐味を終始一貫与え続けられるようなゲームができ、それはプレイの時間短縮、密度の向上につながるのではないか。
まずはマクロな視線を。
これをもって今年のコラムは終了することにしよう。