うがつもの (Be shrewd) 2004年10月号



『お兄様たちのRPG 〜ウォーゲーム派生RPGをうがつもの〜』



2004年10月3日
回転翼 (kaitenyoku*at*www.fact-mail.com)
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 最近、ゲーマーの寿命について考えている。
 現在のRPG業界において30代から40代、ウォーゲーム、ボードゲームからD&Dに入り、草創期・初期RPGを支えてきた世代がオピニオンリーダーとなっている。だが、現実を見れば「働き盛り」の彼らが仕事の合間を縫ってゲームを勤しむ余裕などなく、ゲーマーとしてリタイア寸前である。
 もちろん、「私はリタイアなどしていない」と決意表明をして反論する人もいよう。
 実際やっている人もいる。

 2004年5月に出たRPG、『スターレジェンド』の後書きで、監修者・鈴吹太郎氏はRPGへのノスタルジーとも言える発言をしている。詳しくは原書で確認してもらいたいことだが、無邪気にSFの可能性を述べる作者・銅大氏とはえらく対称的だ。
 鈴吹氏いわく、RPGは誕生から30年経っていない(D&D白箱発売を誕生年とすれば今年30歳)若いジャンルであり、鈴吹氏は結婚し子供ができてもRPGを続けるであろうと不退転の表明をしている。銅氏もまた社会人との二束の草鞋であり、RPGは世代を問わず色あせない楽しみを与えてくれるゲームだというのが要旨だ。

 決意に水を差すようで悪いが、結婚して子供ができるのならゲームなんかしてないで働いて銭稼ぐべきであろう。
 社会に責任を持つというというのはそういうことだ。
 仕事や家庭のためにRPGをやめたという人は数多くいるはずだし、それ以前に忙しくてRPGどころではない人だって多くいる。あるいはとうの昔にRPGを子供の遊びだと見限ってしまった人だっているはずだ。
 この回転翼も、今年度に入ってからプレイ仲間(みんな年上)が相次いで異動や転勤でリタイアし、ゲーマーとしては窮地に立たされている。
 こんな調子だと、あと2、3年後、70年代後半生まれの、90年代RPGバブル期に高校生、大学生だった世代(僕の世代)が30代になれば、ゲーマーのリタイア率はさらに増加するだろう。この世代は草創期・初期のウォーゲーム出身ゲーマーが整備したRPGの基礎を通り潰してきた世代だし、苦労してないだけに生存率は低かろう。

 ……さて、コラムである。
 今回は、『お兄様たちのRPG 〜ウォーゲーム派生RPGをうがつもの〜』と称して、草創期・初期のRPGゲーマーはどんなRPGをやっていたか、僕の経験を元に回顧してみることにした。
 「僕の経験」とふっているのは、この世代のゲーマーは手探りでゲームの醍醐味を模索していた世代だから、1人1人が職人のようにコツを身体で覚えている。コツなんてのはそれぞれの環境、経験、年季から編み出したものだから、1つとて同じものがない。
 感覚的な領域の話だから、論理として総括することがとても難しいのだ。

 それにしても、キャラクタープレイ編の後半までの道のりは長い……。
 事実、今回のコラムもキャラクタープレイの観念が生まれる前のRPGを再検討するのが目的でもある。



1:この章のことはよく酒の話にするけど、みんな「はぁ?」でした


 温故知新は学問の基礎。RPGもまた然りで、『D&D』ら草創期・初期ウォーゲーム派生RPGのプレイスタイルを知らずしてRPGを語るなかれだ。この章では当時の、ある意味失われた世代のゲーム感覚を解題していこうかと思う。

 ウォーゲーム派生RPGに不可欠だった練達科目は、ルールの知悉とプレイ経験である。

 ルールの量に関しては、古いゲーマーであればあるほどこだわる代物である。
 RPGがシミュレーションゲーム、ボードゲームと同居していた草創期・初期段階では、RPGは(現在のような)ストーリーメディアではなく、「キャラクターのいるウォーゲーム」だった。軍団がキャラクター、戦場が迷宮に変わっただけで、基本的な遊び方はウォーゲームを踏襲していた。
 シミュレーションゲームの基幹、独自性はシミュレーション、すなわち「再現」である。いかに舞台となる戦場を再現するか、実際の戦争を再現するかがウォーゲームがチェスから独自性を勝ち取った由縁であり、そのために精巧なミニチュアやジオラマを用意する。シミュレーションゲーム愛好家が、ゲームの良し悪しを決める要素は、まずこの「再現」具合からだと見ていいだろう。南北戦争、日露戦争、第二次世界大戦……ヒストリカル(歴史物)ウォーゲームの醍醐味はゲーム上で史実を追体験する行為にある。もちろん、それがランダム要素によって覆る偶然の妙、または自力で改変する楽しみがあり、それが歴史追体験と衝突するから奥深い代物である。
 こういうゲーム感覚を持った草創期・初期RPGゲーマーがRPGに求めるのはやはり「再現」である。
 迷宮を冒険する冒険者として起こりうるあらゆる事態を想定したルール、それの量こそがRPGの良し悪しであり、いかに「状況再現ルール」を数多く用意するかが、「クリエイティブな仕事」とされてきた。

 もっとも、『D&D』も青箱になった時点で、「キャラクターのいるウォーゲーム」から脱却し、「クリエイティブな仕事」の中身も状況再現ルールから、『指輪物語』などのファンタジー小説を追体験できる状況再現設定の方がメインになっていった。
 『D&D』の基幹戦闘システムは、前身であるウォーゲーム、『チェインメイル』を踏襲しているので、『D&D』は青箱の段階で初めて現行のTRPGっぽくなったと言える。もちろん、それはRPGにストーリー性を盛り込んだ『トラベラー』の治績あってのことであろう。初回コラムで言ったけど、この展開がなかったら、『スーパーロボット大戦』が「キャラクターのいるウォーゲーム」としてRPGを名乗っていたかもしれないのだ。

 こういうゲーム感覚を持った草創期・初期RPGゲーマーが「状況再現ルール・設定」の少ないゲームを有り難がるワケがない。事実、彼ら草創期・初期RPGゲーマーの中には、ストーリーメディア化が進んで、状況再現をストーリーテリングで済ませるようになったRPGを卑下する傾向にある。
 さらに90年代後半、RPGはパーティゲーム視され(詳しい内容は『ゲーム役者たちの光景』で解説)、プレイヤー同士の会話遊びが持て囃された時期は彼らにとって暗黒時代であった。そんな時代に台頭していたのはRPGに関してまったくの消費者で、ストーリーメディア大好きで、当時高校生から大学生だった70年代後半生まれの連中である。
 ……後に手ひどく迫害された世代である。僕が一時リタイアしてたのもそこら辺が原因だ。

 ともかく、ルール量に関してゲーマーが譲らないのは説明がついた。
 次に「プレイ経験」である。これはただプレイ回数を重ねることではない。
 第一に、状況再現ルールに重きを置いていたRPGにおいて、いかに状況にあった状況再現ルールを引き出せるかがシミュレーションとしてのRPGの「経験」であるからだ。
 だが、それ以上に大事なのは、「役割分担」のシステムを体得することにある。この「役割分担」こそ、草創期・初期ウォーゲーム派生RPGにおいてプレイの完成度を高める絶対不可欠な技術なのである。

 『D&Dがよくわかる本(黒田幸弘著、富士見書房)』で、最初のリプレイは経験不足のパーティがレッドドラゴンの一息で全滅する、RPGファンなら誰もが知る有名なリプレイだ。あのリプレイはプレイヤーも初心者だし、教範的リプレイだからみんな反省で済んだけど、プレイヤーが熟練者揃いだったら暴動になる。まあそれはありえないだろうけど、逆……熟練者マスターが手加減抜きでシビアな迷宮を当てるのはよく経験している。
 ゲームなのだから、実力は伯仲した方が面白い。
 『あなたのキャラを殺すのは』で触れたが、ウォーゲーム派生RPGにおいてゲームバランスを崩壊させるのは戦力不均衡である。もちろん、不均衡だからダメとはどこにも書いていないけど、プレイヤーがウォーゲームに思い入れがあるほど、戦闘バランスをギリギリにしたがるし、実際その匙加減には熟練さが要求された。

 とみに『D&D』ともなれば、DMとプレイヤーの化かしあいである。
 『D&D』なんか目もくれずに『トラベラー』や『ローズ・トゥ・ロード』やってましたって環境なら違うのだろうけど、『ソードワールド』が出る以前のRPGと言ったら「プレイヤーとDMの騙しあい」が大きなゲーム性であった。DMは死の罠に趣向を凝らし、プレイヤーをいかに嵌めるかが技量とされ、プレイヤーは奸智をもってDMの罠をすり抜け、DMを出し抜くかがゲーム感覚とされてきた。
 そんな世界に10フィートの棒の重要性を知らない人が入って、いい目に遭ったとは聞かない。
 恐らくは熟練ゲーマーの勧めに従い、高いACとHPで「死ににくい」と推されてファイターになる人が多数であろう。逆にシーフは絶対やらせてくれまい。たとえDEXが18であろうともだ。
 『D&Dがよくわかる本』が出回る頃には、RPGは草創期を終えてプレイヤーの間には「ダンジョン攻略法」が不文律的に出来上がっていた。それが「10フィート棒で叩きまわる歩法」であり、DMもさらに「ダンジョン攻略法対処法」を練ったりして、空き巣の解錠技術と防犯グッズのせめぎ合いみたいにエスカレートしていった。
 そんな状況の中では、シーフこそが『D&D』の主役であり花形であった。シーフはいかにDMの罠を解除し、時には詭弁をもってDMの罠がいかに「物理的にありえないので罠として稼動はしない」と論破することがシーフに科せられた大事なゲーム感覚であり、シーフの醍醐味だった。熟練プレイヤーが譲らないはずだ。
 それに対して、ファイターは盾であり、当て馬である。戦闘に益が少ない『D&D』においてファイターはシーフやマジックユーザーを守る盾であり、シーフが気付かなかった罠に率先して引っ掛かる役目を仰せつかっている。なるほど、いかにも初心者ゲーマー向きだ。
 『D&D』でシーフができないような人間は熟練者になれない。
 もちろん、そんなゲーム感覚のシーフ役プレイヤーは性格がカオティックだから、初心者を罠やモンスターへの当て馬にしては「馬鹿だなぁ。まあこれもいい経験だよ」と底意地の悪いこと言う傾向がある。最悪、化かしあいのスリルに酔って大局を見誤るシーフも数多くいる。
 だから、回復呪文やターンアンデットなどパーティを生かす技術を持ったクレリックがコーラーを引き受けるのが重要なことだった。そこはパーティを生還させ、冒険(ゲーム)を成功させるローフルな性格のプレイヤーが不可欠なわけで、ここでも熟練の技が必要だった。
 ちなみに、ウォーゲーム派生RPGとは言えダンジョンにウォーゲームでは登場しそうにない、「プレイヤーの頓智が必要な謎かけ」、すなわちリドルを盛り込むDMもかなりいたが、その手のリドルを解く役目を与えられているのがマジックユーザーである。断じて、「火力」役などではない。もちろん、マッパーも彼がやる。

 こういうゲーム環境の中、率先して「僕、ハーフリングやるよ」と言うプレイヤーは間違いなくトリックスター的性格を持ったルーニーである。放任はされるが信頼はされない。エルフに至ってはファンタジー小説かぶれの、ゲーマーとしての意識が低い連中と見なされている。斧を装備するドワーフにしても同様だ。
 すべてはプレイヤー間の「役割分担」こそ命だからこその判断であり、それ以外は『指輪物語』であろうとも害悪である。ゲーマーに徹するというのはそういうものだ。

 だが、DMに比べれば彼らのプレッシャーなど可愛いものである。
 DMにとって、もっとも油断できないプレイヤーは生死の境に疎い初心者ばかりのファイターと狡猾極まりないシーフである。無論、マジックユーザーも自分では動かないが頭の中はシーフと同様カオティックである。コーラー役のクレリックもパーティ側の人間だから、その良心はパーティの無事に向いている。
 こんな連中がよってたかってDMに挑むのだ。しかも全員が、実力伯仲のシビアな冒険を欲する熟練者揃いだとしたら……金をもらいたいぐらいである。
 事実、多くのDMがプレッシャーに負けて甘々のダンジョンにしてしまいがちだった。
 あるいは無用にマジックアイテムを与えて、プレイヤーからのプレッシャーを少しでも緩和しようとした。泣く子に勝てぬとオモチャを与えるように。
 本来なら一の熟練者がDMをやるべきなんだろうけど、その一の熟練者がシーフ志向のカオティックな場合が多いのが実情だ。実際、DMは熟練者か否かじゃなくて、サークルの幹部クラスの人間がやるものだと僕は教わってきた。プレイヤーの性格、度胸、狡猾さから人間関係までを熟知した人間じゃないと、対決しているが協調しているというプレイヤーとDM間の折衝はできやしないし、伯仲したゲームを提供できないというのがその理由だ。
 DMにはDMの、プレイヤーとは違った経験が要求されるということだ。

 ……なんか『D&D』に偏重してしまったけど、昔はこういうことを平然と要求していた。
 ウォーゲーム派生RPGの基幹である「役割分担」とは、「プレイヤー間の役割分担」に他ならないのだ。そして、プレイヤーの役割分担とはすなわちチームプレイのことなのだ。
 野球において、投手・内野手・外野手・捕手の役目、一番打者、二番打者、そして四番打者の役目がきちんと役割分担されているように、RPGもまたプレイヤーの能力、性格、使用キャラクターに合わせた役割分担をさせ、チームとして機能することを求めるのだ。
 古参ゲーマーがキャンペーンを重視するのも、チームプレイは1日にしてならないからだ。フリープレイでは見知らぬ者同士になることで、プレイヤーの能力・性格と役割分担にズレが生じて、プレイの完成度が低下する危険がある。『D&D』ともなれば、1年以上も同じメンバーでプレイしたこともあるけど、それですら短い方であろう。

 うーむ。懐かしい。まさにカビの生えた話だ。
 現実を見ればこれらウォーゲーム派生RPGの基幹は失われたと見てよい。
 当の草創期・初期RPGゲーマーがリタイアしたからだなんだけど、RPG自体も「状況再現ルール・設定」や「プレイヤー間の役割分担」が必要ない性質のものに変化していったことが大きい。こういった要素は、後発の非ウォーゲーム出身者に受けが悪かったのだろう。

 次章、このウォーゲーム派生RPGのスタイルが廃れていった経緯を検証する。



2:スタンドプレー(「俺が俺が」)が華


 まずはRPGを取り巻く環境の変化があるが、一番の変化はRPGがメディア化(表現媒体となった)したことによって、それまでゲームトークンに過ぎなかったキャラクターがプレイヤーの表現媒体と化したことだ。
 今ではロール(役割)と言えば、多くの人が「キャラクターの人格・性格」を意味する言葉だと認知し、ロールプレイと言えば、「キャラクターの人格・性格を演じること」としている。もう当たり前すぎて、異論を唱えるならクズ扱いされるほどにだ。
 だが、RPGがメディア化していない時代のロールプレイとはどうであったか。
 決して「キャラクターの人格・性格」などではないことは前章を見れば察することができるだろう。この時代のロールとは「プレイヤー間の役割分担」であり、ロールプレイとは役割分担に応じたチームプレイをすることだった。
 メディア化して表現媒体となったキャラクターという存在が当たり前になり過ぎて、前時代のゲーム感覚は完全に消去されてしまった。キャラクターと言えばプレイヤーと別の「演技すべき何か」があると誰もが信じ疑っていない。例え、『ソードワールド』みたいな「キャラクターの人格・性格」が反映されないゲームでもだ。

 キャラクターへの表現意欲が高まり、チームプレイの意義が失われたRPGでは「プレイヤー間の役割分担」による協調が薄れ、(キャラクターの集団単位としての)パーティはプレイヤー各位の「萌えキャラ」発表会とも言える寄り合い所帯と化した。
 偶然か需要に応じたのか、はたまた神の見えざる手だか知らないけど、RPG自体もこんな世相に答える個人プレー向きのゲームが増えてきた。その代表格が、日本では『TORG』であった。
 この『TORG』というゲーム、プレイヤー間の役割分担などないゲームと言える。結局は偉業を達成するという点では役割なんてみんな同じだから、プレイヤーは個人プレイでもいいゲームだ。
 厳密にチームプレイを試みるならともかく、例えば『トーグガイドブック』(細江ひろみ著、山北篤監修、新紀元社)のリプレイを見ても、どう見たって各レルムの代表選手を集めた役割分担意識ゼロの寄り合い所帯である。「リンク切れを防ぐため、各出身レルムに従った演出をするのが役割分担だ」だと意見もあろうが、結局はプレイヤー全体の大目標ではなく、見せ場に従った個人プレーの連続でしかない。
 アメリカではどういう経緯をもって登場したのか知らないけど、表現媒体としてのキャラクターを求めていた日本RPGゲーマーにとって『GURPS』と同等のカルチャーショックを与えた作品ではないか。
 キャラクタープレイの雛形は『ソードワールド』や『ロードス島戦記』と、それらのリプレイによって生まれたものだし、ロールプレイ規定システムは『GURPS』が代表であろう。されど、『TORG』こそキャラクタープレイの元凶だという人もいる。
 むしろ『TORG』が井上純弌氏のゲーム観に深い影響を与え、それが『天羅万象』から始まる一連の井上スタイルのRPGを作る契機となったという点で重要なゲームなのであろう。何にせよ、井上氏や鈴吹太郎氏、柳川房彦氏のゲームを以て、日本RPG界におけるキャラクタープレイRPGのシェアは優勢の地位を得た。

 そして、現在では「プレイヤー間の役割分担」などさして重要なものではなくなった。

 現在ではキャンペーン(次回以降も続くことを前提としたプレイ)よりも、フリープレイ(1回ポッキリのプレイ)の方が圧倒的優勢のご時世だ。そうなると、役割分担や資源管理を徹底してキャラクターを育てていく楽しみよりも、自分の選んだ設定(つーか、コマンド技)を派手に披露するのがRPGの楽しみ方としては実情に即しているのだろう。ここ2、3年に出たゲームなんかは「キャラクター設定」としてのアーキタイプが完成し過ぎて、1回プレイすれば、次は別のアーキタイプという気にはなるが、1回でそのキャラクターを遊び倒した感じがして2回も3回もする気になれないのだ。
 本当、キャンペーンなんか今のご時世では老人臭の漂う話だ。
 ましてや、「プレイヤー間の役割分担」などに何の意味があるのだろう。あれほどまで、RPGをパーティゲームと見なし、RPGを親睦のための道具と持て囃していた時期があったのに、現在では「親睦」すらゲーマーには大した価値がないのかもしれない。自分の「萌え」キャラを披露してキャラクタープレイを堪能してお終いなのだろうか。
 この寂寥感を『トーキョーN◎VA』で喩えれば、今目の前にいて楽しい時間を共有しているはずのゲーマーはいずれもキャストではなくゲストなのだ。プレイが終われば、二度と会うこともない。残るのは、同じく二度とプレイされないであろうキャラクターシートのみ。

 こんな刹那的な状況を顧みて、RPGの将来に楽天的なことを言う人がいないのも分かる。

 実はキャラクタープレイ編の後半に苦慮しているのも、「他プレイヤーとの関係を前提としたキャラクター」を作るRPGが思いつかないというのがあるのだ。いくら「キャラクターの人格・性格」を前面に出し演劇風ゲームを望んでいるとは言え、演劇には主役と脇役、それに悪役や端役も含めた全体の調和が必要なことぐらい誰でも分かる。
 今日の単発発売RPGを最新の流行とするならば、RPGにおけるプレイヤーは限りなく「個人化」しており、「他人本位」という考え方をどう説明すればいいのか悩んでいるのだ。



3:もういいじゃんN◎VAなんてアキハバラの近未来像なんだし


 一方、「状況再現ルール・設定」は辛うじて生きている。
 それでも、それはデザイナーが「クリエイティブな仕事」をしているからに過ぎず、英国の某社ではないけどゲーマーの方はそんな状況再現の楽しみなどに価値を置かなくなっている。僕なんか、与えられた設定を遊び倒そうという姿勢がゲームを面白くすると思ってるけど、自分のキャラクターのことしか頭にない人にはそうは思わないらしい。
 そこんトコは第3回コラム、『あなたのキャラクターを殺すのは』で穿ったのでそちらを見てほしい。
 確かに魅力的なキャラクターを駆る楽しみはRPGならではだろう。だが、それは世界設定とリンクしてこそであり、世界設定なんかおざなりにキャラクターアピールだけすれば幸せということではない。
 まあ、昔なんかよりずっと世界設定が膨張している現状では無理もない。
 それでも世界設定が単なるフレーバーと化している現状は、決して幸福ではないだろう。

 白河堂氏が揶揄しているように(僕は遠慮なく穿つけど)、『トーキョーN◎VA』のお勧め作品に『マリア様が見てる』とはねぇ。それを見てから、原作やアニメを読み直したけど……リリアンってあの災厄の街じゃハイランダーの巣窟っぽいし、小笠原祥子お姉サマが「ハイランダー=ハイランダー◎、ミストレス●」で、福沢祐巳ちゃんが「ミストレス=ミストレス=ミストレス◎●」、藤堂志摩子さんは「ハイランダー=ハイランダー=ハイランダー◎●」ってことかな。もちろん佐藤聖サマは「ミストレス◎、カブキ=カブキ●」。
 ……あと少し発売時期が遅れたら、『ガンスリンガーガール』、『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』、『爆裂天使』といったぐっとN◎VA向けのアニメが登場するのが惜しまれるところ。ただし、『ふたりはプリキュア』が掲載されていた可能性もあるしねぇ。あっ、ゲームの方じゃ『FATE』ってことも有り得るか。
 ……皮肉ではない。
 適度にテクノロジーがあり、適度にファンタジーがあり、どんなキャラクターが暮らしていてもスタイルの多様性で済まされる『トーキョーN◎VA』はパロディーをするに相応しいゲームだと僕は思う。つーか、『サイバーパンク2.0.2.0』みたいなハードボイルド専門の「サイバーパンク」なんかと一緒にしてはいけない。

 草薙素子少佐が暗躍している隣を福沢祐巳ちゃんがパタパタ駆け、美墨なぎさちゃんがタコ焼きを頬張る……確かに違和感アリアリなんだけど、もうN◎VAってのはそんな世界観だと割り切った方がいいかもしれない。『サイバーパンク2.0.2.0』においてすべてのキャラクターはナイトシティという舞台に溶け込まざるをえなかったが、『トーキョーN◎VA』においてN◎VAとは、すべてのキャラクターが持つ「萌え」によって構成される永遠の白地図なのだ。

 そう言えば、『サイバーパンク2.0.2.0』は古いゲームなだけに、「プレイヤー間の役割分担」も、「状況再現ルール・設定」もきちんと機能していたし、プレイスタイルは『D&D』に似ていたような気がする。つーか、サイバーD&Dに堕したことも何度かある。
 こっちは一の経験者(性格カオティック)がソロでコーラー役はフィクサー……正直、この2種だけでダンジョン漁りは可能だし、近未来物によくある便利屋稼業はこなせた。ロッカーボーイやノーマッドは使い勝手が悪いし、エルフやハーフリングが『指輪物語』ファン層へのリップサービスなのと一緒に、パンクカルチャー好きな人向けのリップサービスとしか思ってなかった。素直に荒廃した近未来で便利屋稼業をするのが主題なら、『メタルヘッド』や『シャドウラン』の方がスマートだ。
 もちろん、『サイバーパンク2.0.2.0』の主題は、人情とサバイバル社会、人間性とマシーンらしさという境界線……エッジをふらつくというキャンペーン的要素にあるのだが、それは日米ともに中々理解されなかったようだ。

 結局、確かにキャラクターは進化したけど、反比例して世界観がレイムダックしているので「状況再現ルール・設定」は自分のキャラクターに特化されてしまった感はある。ここでも「個人化」が進んでいる。自分のキャラクター設定を一通り出したら、他人のキャラとのつながりがないだけに、ゲームのキャラとして遊び尽くす限界に達してしまうのだ。後は他人のキャラとのつながりを楽しむしかないけど、フリープレイ中心の現状ではキャラクター同士の人間関係を楽しむことは困難だ。
 結果、萌え尽きれば同じキャラクターを使う必要などどこにもなくなる。

 「個人化」が進めば、たどりつく先は忘却でしかない。
 皮肉なことだが、結婚して子供が出来てもRPGを続けると宣言した鈴吹氏の作品は、ともに支えあう仲間を増やすゲームではない。数多くの塵芥を通り過ぎて、それでも萌えを保つしか10年、20年と遊び続けることができないのかもしれない。



4:飽きるという崩壊を防ぐために


 プレイヤー間の役割分担と、状況再現ルール・設定はともに一時期激しく嫌悪されたスタイルである。

 プレイヤー間に役割分担を求める行為は、そのままサークル内に階級を作ることを意味していた。
 体育会系の先輩・後輩の関係がゲームの名のもとで正当化されていたのだ。後輩としては憤懣積もることであるが、サークル内での人間への知悉度がプレイに反映されるとあっては新参者がハンデを負うのは致し方なかった。
 そういう縦社会の絆に対する嫌悪感から、誰もが対等の立場に立てるフリープレイ中心のコンベンションにRPGが移行したのは、多くの大学で縦社会(先輩・後輩の立場を重んじる)サークルから横社会(対等の友人関係を重んじる)サークルにメンバーが流れるのと同様の至って自然な流れだと言える。

 状況再現ルール・設定についても似たようなことだ。
 草創期・初期RPGはウォーゲーム、シミュレーションゲーム、ボードゲームとの境界線は曖昧だったし、共存共栄していた。卓にはフィギィアやフロアタイルが敷き詰められ、傍から見てもこれはゲームをしているんだなと認識できた。
 それが中期以降になれば、リプレイに触発されたストーリーテリング主体のRPGが主流になり、シナリオ重視の時代になった。それに伴い卓からはフィギィアやフロアタイルが消え、RPGはより抽象的なゲームとなった。まるでストーリーテリングこそ「知的遊戯」であり、小道具を駆使するウォーゲーム派生RPGは旧時代のヲタク臭い代物だと掃き清めるかのように。
 ストーリーメディア出身のゲーマーは、少なからず物語を紡ぎ出すのが好きだ。ファンタジー作家志望者も1人や2人ではない。彼らはRPGを創作の場としてとらえ、「知的遊戯」であることこだわった。故にことあるごとにシミュレーションを重んじるウォーゲーム出身者と揉めた。

 結果、プレイヤー間の役割分担と、状況再現ルール・設定を重んじた古いゲーマーはあらかた撤退したか、TCGなどに鞍替えしたか、さもなくば新興勢力の手に堕ちた。踏みとどまって、伝統的なスタイルを堅持しようとした人間はあまりにも少ない。

 現在、RPGは個人化が進んで、多くの人にとって「読物」としては支持されているが、10年20年と続ける「趣味」としては認知されない状態になっている。この状態では、鈴吹氏もたくさんの著作を出した「作家」としては評価されようが、1つの趣味の世界を維持・発展させることに貢献した「趣味人」としては失格という人生を送りはしまいか。
 それでは誰もついてはきしまい。

 確かに一時期、「RPGという趣味文化」よりも「RPGを媒体にした交友関係」の方が大事とされ、それによってRPGはパーティグッズに堕したという苦い思い出はある。
 だが、現行のRPGがその状態を打破したとは言いがたい。「RPGを媒体にした交友関係」まで捨てて、今やRPGは「読物としての人気」でしか支える基盤がないように思えるのだ。

 今回、古き『D&D』のプレイスタイルを説明することによって、「プレイヤー間の役割分担」なるものが原初のRPGには存在していたことを示した。一度は嫌悪されたスタイルだけに正しいとは言わないが、多くのゲーマーがリタイアの危機にある現状において1つの代案を生み出すきっかけにはなっただろう。


回転翼(2004.9.12)


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