うがつもの (Be shrewd) 2005年7月号
2005年7月3日
回転翼 (kaitenyoku*at*lunashine.net)
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どうもお久しぶり。回転翼です。
しばらくBlogの方をメインに活動していましたが、そのおかげで「劣悪環境で喘ぐ苦悩のゲーマー」というイメージが先行するという予測もつかない実績を育んでしまいました。その結果、コメント欄を荒らされる不始末をしでかしてしまい、現在もコメント欄を取り下げたままの状態です。
その反省を踏まえ、論者としての刺々しさを改めるために、前年度まで使っていた「である」調をひとまずやめることにしました。よろしくご了承ください。
さて、半年ぶりとなるWeb版『うがつもの』は「個別のゲーム感覚を破れ 〜ゲーム感覚をうがつもの〜」と称して、日本においてTRPGのプレイスタイルがどのような経緯をたどってきたのかを考察してみたいと思います。
今年でTRPGは31周年。日本語版『D&D』発売前から自家翻訳でプレイしてきた人と、最近『D&D3.5e』をプレイし始めた人との間には20年以上の経験格差が存在します。若いジャンルだと言われ続けながらも、すでに『D&D』のゲーム感覚が通用しないまったく別種のゲームが何作も登場しています。それにともない、ゲーマーが培ってきたゲーム感覚の内実もまた際限なく多様化し、統括して語り合うことが困難になりつつあります。
以前、Blog版『うがつもの』で「悪党が人質にナイフを突きつけた……」という首ナイフの公案について言及したら、それが起爆剤となってTRPG系Blogで一時期盛んに首ナイフ問題が取り沙汰されました。それで痛感したのは、一体この人はどのゲームを根拠に論じているのかという疑問でした。
僕はもっぱら「演出」などない古いTRPGを前提として解決策を講じてきましたが、演出としてNPCを自動的に退場させることができるゲームともなれば、数値修正以前に機械的な退場宣言で事足ります。『D&D』や『サイバーパンク2.0.2.0』などのゲームと、『深淵』や『トーキョーN◎VA』とではまったく違う状況なのに、その違いを説明責任せずに、ただ自分のゲーム感覚を押し通すだけでは話が咬み合うわけがないです。
まずは「ゲーム感覚」という言葉がいかなる性質のものか解題する必要もありそうです。
ゲーム感覚とは非常に不明瞭な言葉です。
まず、ゲーム感覚という言葉はある別の言葉と混合して用いられてきました。
それは「ゲーム理論」です。TRPGで論議するとき、彼はゲーム感覚を話しているのか、それともゲーム理論を話しているのか……その区別を明確にしている人などほとんどいないでしょう。あるいは、自分のゲーム感覚を哲学や心理学の用語で理論武装したり、一個人のゲーム感覚に過ぎないものを汎用的なゲーム理論だと勘違い乃至思い上がったりしたりしていることもままあり、両者の区別を困難にしています。
では僭越ながら、この回転翼がまずはゲーム感覚の定義をさせていただきます。
ゲーム感覚とは、「プレイ環境、遊んだゲーム、プレイ実績、研鑽した知識から編み出したゲームに対する価値・識別・判断基準」です。
これが僕が定義するところのゲーム感覚です。
見ての通り、誰1人として他人と同じゲーム感覚を持ってはいません。そして経験から生まれたものですから、根底には「楽しく遊べた」ゲームには寛容な、「しっくりこなかった」ゲームには厳しい嗜好が加味されており、世間的な評価とは異なる評価をしていることもあるのです。それにプレイ環境やメンツの相性、インターネットなどでの入れ知恵とかも加わって、余人とは違った独特の感覚が生まれるのです。
要は経験からなる好みですので、あらゆるゲーマーが無自覚ながら個別のゲーム感覚を保有しています。
そして、経験ですのでなかなか拭いきれないという性質を持っています。ゲーム感覚には信仰や偏見、トラウマすら含まれる負の側面もあるからです。
どんな良作ゲームであれ、相性の悪いメンツとプレイして最悪の日となったゲーマー・Aが、そのゲームを「劣」と判断したとしましょう。そこで、別のゲーム環境でそのゲームを楽しく遊んでいて「良」と判断しているゲーマー・Bが「君の評価は間違っている」と言いたくなったとしましょう。
だが、Bがどんなに自分のプレイ環境では楽しくプレイできていることを力説しても、そのゲームの「良」とする判断材料を力説したとしても、Aが相性の悪い条件下で劣悪なプレイをしたという事実は覆せないのです。
海難事故で死線をさまよった人に、マリンスポーツの良さを力説するのと同じことです。
ただ、マリンスポーツとなるとさすがに海の危険さはどんな愛好家とても熟知してるでしょうから、事故に遭った人の気持ちは理解できます。しかし、TRPGは誰もが危険を克服したり、危険に備えたりして学習していった経験を持っているとは限りません。
10年以上プレイして、1度もキャラクターが死ななかったプレイヤーだってごまんといますし、コンベンションを渡り歩いていれば、同じ人と2度も卓を共にすることなどまずないという人だっているでしょう。『D&D』だって、イモータルに達した人もいれば、グールに噛まれてそれっきりの人もいます。
それほどまでに、TRPGのゲーム感覚とは他者のそれとはかけ離れたものなのです。結局はルールブックしか共有しているものがないので、咬み合いはとても悪いし、第三者にはまったく理解不能な言葉の羅列が続くこともしばしばあります。
TRPGゲーマーはまずそのことを認識するべきです。
TRPGの論議ともなるとよくあることなんですけど、BはAのゲーム感覚を自分への挑戦と見做して、Aの感覚を否定すべく「事実の塗り替え」を図ろうとします。これがネットでの論議ともなると厄介で、BはAの置かれた環境などお構いなしに、自己のゲーム感覚を一方的にまくし立てるだけという展開が頻発します。自分への挑戦と受け取ったBがAに思いやる気など毛頭なく、Aの事情など聞く耳持たず、「どんな事情があろうが低評価をするお前の感覚は許されない」と断罪します。
ゲーム感覚とは基本的に過去指向です。
感覚の基が過去の経験、現在の見識ですので、どうしても幸福な人は自分のプライドを、不幸な人は自分のトラウマをかけてしまいがちです。最悪、AのトラウマとBのプライドが正面からぶつかって殴り合いになることだってあります。大抵は、それより前にAはBもまた自分とは相性の悪い人間だと見做してBの前から消えます。BはAが反応しなくなったことに勝利感を覚え、誰の役にも立っていないカラッポの「熟練者」ぶりを誇ります。ゲーマーの中には、こんなやり取りを続けて「自分はTRPGにおけるスタンダードな見識を持っている」と勘違いした人間すらいます。
まさにムダな労力です。
ネットの世界では議論のための議論という言葉遊びに興じ、自己表現のダシとしてTRPGが使われているに過ぎないというのも一理あるでしょう。だが、今後自分とプレイを共にする可能性の薄い……氏素性も知れない人間とヴァーチャル世界で論戦などしても一体何の利点があるのでしょうか。
そして実際のプレイは、彼ら論客が語るほど理路整然としたものであった試しがないです。
複数の個別の感覚を持ったゲーマーが予定調和もなしにプレイしているのですから、いくらでもカオスが発生して、彼・彼女の力説した理論など真空化してしてしまいます。それほどまで、TRPGというのは御しがたいものであり、またそれがレクリエーションとして楽しい由縁なのです。
個別のゲーム感覚に、卓を支配できる力なんかありません。
そのことを理解し、自分が他人のゲーム感覚に従うことの愚かさ、他人に自分のゲーム感覚を押し付けることの不毛さを実感しなければ、到底TRPGの「共有」などできるはずがありません。ゲーム感覚なんてみんな不定形です。自分が他人の型に入る必要などなければ、他人が自分の型に入り込むよう求めるのも「おこがましい」のです。
TRPGゲーマーたるもの、いつかは自分の理想とするTRPGスタイルが実現されることを望むでしょう。個別のゲーム感覚はその人のプレイ技術やロールプレイの大きな武器となり、やがては一流のプレイヤー、一流のGMへと昇華させてくれるかもしれません。
だが、個別のゲーム感覚のみでTRPGゲーマーとして大成するかと思うのは大きな勘違いです。
いずれは、互いに譲れぬほど経験を積んだ他のゲーマーとの、絶対的な感覚の違いに遭遇して個人の限界を思い知るでしょう。あるいは、自分が宝のように慈しんだ「TRPGはこうプレイすると楽しいんだ」という高等な感覚を、それに達せずそこそこの楽しさで満足する「衆愚」との軋轢で激しく磨耗していくでしょう。
どこかで、個別のゲーム感覚を超えなければ、どこかで自己のゲーム感覚に限界を感じて、TRPGを「卒業」してしまうことでしょう。僕自身も個別のゲーム感覚が、他者の個別のゲーム感覚とどうしても合わなくて苦悩した経験が続きました。
個別のゲーム感覚のみでは、いつか自己の限界程度でTRPGからリタイアしてしまうでしょう。
次の章では、僕自身のゲーム感覚から導き出した「個別のゲーム感覚から見たTRPGの問題点史」を見ていこうかと思います。31年の歴史の中で、どの時代にどのようにしてTRPGゲーマーは個別のゲーム感覚の限界を感じてリタイアしていったのかを考察します。
黒田幸弘氏の『D&Dがよくわかる本』では、DM技術上達の方法を段階的に示しています。
始めは市販のサプリメント……この時代では「モジュール」と称していたものをプレイすることから始まり、そこからモジュールの改造を経て……
Lv2:自作ダンジョン作り
Lv3:物語的なシナリオを絡めたゲーム作り
Lv4:NPCの操り方
Lv5:世界観と連動したキャンペーンの方法
と言った具合に徐々にマスタリングの裾野を広げていくよう薦められています。これはガイギャックスが『ロールプレイング・ゲームの達人』で示したRPGの達人への道を具体的な形にしたものかと思います。
『D&D』が絶妙な点として、DMが必要とされるマスタリング技術と、プレイヤーが自らの管理資源(HPとか)に見合った“できること”の範囲……ゲーミングの範囲がうまく比例している点があります。
赤箱レベルのパーティは青箱レベルパーティがやらかす「村を襲って財貨を得る」とか、緑箱レベルパーティがやらかす「村々を襲撃して財貨を得る」とかいう“あこぎな遊び方”ができるほど強くありません。せいぜい10フィート棒をつついて洞窟を歩き、グールをやりすごす手段を考えることぐらいしかできない戦力です。
すなわち、赤箱レベルでは「Lv2:自作ダンジョン作り」ぐらいができればDMとして合格なのです。この段階から「Lv5:世界観と連動したキャンペーンの方法」を修得する必要はDMにはなく、プレイヤーもまたそこまで踏み込める状態ではありません。
僕が『D&D』を初心者向けTRPGとお勧めしているのは、DMとプレイヤーがともに初級技術しか扱えない状態からスタートして、ともに慣れていくにつれて技術の幅……DMはマスタリング(NPC、モンスターなどのGM資源と、迷宮などの仮想ゲーム盤を管理し、プレイヤーのゲームプレイングを公正に処理する)とストーリーテリング(世界観の管理とシナリオの運営で、プレイヤーのゲーミングを扶助する)の2つの技術を修得し、プレイヤーはゲームプレイング(HPや能力値などのPC資源を管理し、ゲーム終了までにゲーム目標を達成して配当を得る)とゲーミング(物語的な能動的行動によってシナリオに介入し、世界観をPCたちの行動に絡めて構築する)の2つの技術を修得することができるゲームだからです。
だが、この徒弟制度的な形式では『ソードワールド』以降に爆発的に増えた遊戯人口を支えることができませんでした。ファミリーコンピューターの普及によって、すでにゲームは遊び手が共有し構築するものから、メーカーが製作したものをコンシューマー(消費者)として享受するという時代に変貌していました。『ソードワールド』以降の参入者は多くの点で、『D&D』のプレイスタイルを受け付けない感覚を有していました。
例えば、『ソードワールド』は『ドラゴンマガジン』を母体としていただけに、非常に物語慣れした人が参入してきています。彼らの厄介な所は、初プレイの前からTRPGにはライトノベルみたいな物語を追体験できる物語再生装置としての側面があることを認識し、それを期待して参加してくるということです。黒田氏のレベルで言えば、初っ端から「Lv3:物語的なシナリオを絡めたゲーム作り」段階でのプレイを望んでくるのです。
これは『コンプティーク』を母体としていた『ロードス島戦記コンパニオン』や『マル勝スーパーファミコン』を母体にしていた『ダブルムーン伝説』とて同様でしょう。
ゲームプレイングなんかてんでできないひよっこがです。
『ソードワールド』は意外にシビアな戦闘バランスだと言われていますけど、『D&D』赤箱ほどシビアではないですから、作りたてのキャラでも「Lv3:物語的なシナリオを絡めたゲーム作り」に対応できるほどの戦力にはなります。プレイヤーは初歩的なゲームプレイングを学ぶ「ノービス期間」なんかナシにプレイが可能なのです。そして、ストーリーメディア参入者は自分はゲーミングがしたくて、GMにはストーリーテリングをしてもらいたくてウズウズしている状態です。
したがって、自然と初期レベルが「Lv3:物語的なシナリオを絡めたゲーム作り」となり、たとえ本日初GMの人でもLv3以上の技術が要請されるのです。
もちろん、ゲームプレイングがなっていないプレイヤーも、マスタリングがなっていないGMもシナリオを楽しむ以前に自分の資源管理に失敗するのが関の山です。大抵が、どちらか佳境前に資源を使い果たして……プレイヤーの場合はキャラが死に、GMの場合はNPCやモンスターが死ぬ……トラブルを起こすわけです。
競馬などで言えば、本日のメインレースを前に前座のレースで持ち金を使い果たしてしまった状態でしょう。金と違ってTRPGの資源はすべて仮想のモンですから別の人が貸すわけにもいかず、大抵がメインレースを指をくわえて見守るしかないです。これがGMだと厄介で、メインレース前に馬を出し尽くしてしまったりして賭けの胴元としての機能を果たせなくなる状態になるのと同等の行為をしでかしてしまいます。何人もの客が騒ぎ出すのは火を見るより明らかです。
だが、だからと言っていきなりLv3以上を求める『ソードワールド』がダメなゲームだったと言えばそうでもなかったのが現実です。ストーリーメディア参入組は確かに物語再生装置としてのTRPGを強く求めましたが、プレイヤーのゲームプレイング技術とGMのマスタリング技術を競わせるダイスゲームとしてのTRPGについてはさほど関心がありませんでした。
だから、GMとしてはマスタリングはプレイヤーがいい気になる程度にすれば充分で、プレイヤーに気持ちよく剣を振らせる雑魚敵と、協力して何か目標を達成したような気にさせるボス敵を出せばこと足りるのです。プレイヤーとしてもその程度でゲームプレイングは満足する程度しかゲーム感覚が養われていません。
それにより、幹事役のGMが講釈でプレイヤーを囃し立てるパーティゲーム的なTRPGスタイルが形成され、一時は『D&D』のスタイルを陵駕したものです。
こうなるとプレイヤーの方は徹底的に物臭になるもので、ゲーミングの必要性すら認識することができず、TRPGなんてGMが面白い物語を提供してくれるものだからと、何の事前準備もしない「聴衆」プレイヤーが出てくるのです。
彼らを例えるなら、マジックショーの観客です。だいぶ前からTVでマジックが流行ってますけど、観客を呼んで「好きなカード引いてください」とやるやつ……それと同じように、とにかくGMの話に頷いて、GMの問いかけに答えて、GMのお膳立てした戦闘をこなせばTRPGに参加したのだと思い込むようになってしまったのです。
彼らはゲーマーとしてはとても移り気で飽きっぽく淡白です。TRPGにマジックを見るような刹那的面白さしか要求しませんので、いくら熟練のGMでも糠に釘を刺すような反応しか得られません。
折りしも、90年代半ばあたりからアーケードには対戦格闘ゲームのブームが起きます。同時に、マジック・ザ・ギャザリングなどのTCGも登場するようになりました。
すでに「刹那的面白さ」に毒されたTRPGゲーマーの中には、TRPGのダイスバトルゲームよりも刹那的に楽しめるこれら対戦ゲームにのめりこみ、そのままTRPGから鞍替えしていった人たちも多数いました。TRPGのゲーミング、ストーリーテリングのみに特化して「吟遊詩人に聴衆プレイヤー」となる人がいる一方で、ゲームプレイング、マスタリングに特化して「対戦格闘志向デュエラー」と化した人もいるということです。
現在、TRPG業界で一定のシェアを得ているF.E.A.R社のスタイル……PCの物語的な立ち位置を固定することにより、シナリオを整然と進める機械的物語再生装置としてのスタイルと解釈すればいいのか……は、上で挙げた経緯の中から、従来のTRPGにあった2つの問題点を解決しようとして生み出されたスタイルかもしれません。
2つの問題点とは、
1:プレイヤーのゲーミング偏重・ゲームプレイング不足、GMのストーリーテリング偏重・マスタリング不足が引き起こす乖離によって、どちらか乃至双方がゲーム資源の中途枯渇を起こしゲーム続行が困難になることから発生するトラブル(第1期トラブル「乖離」)
2:プレイヤーの能力不足・意識低下から引き起こす吟遊詩人GMと観客プレイヤー状態が引き起こすGMのストレス増加、それに伴うGM人口の低下というトラブル(第2期トラブル「空洞」)
です。
もちろん上述のF.E.A.R社のスタイルはあくまでも「基調」に過ぎません。『トーキョーN◎VA』は「キャストが物語に与える影響」をメインとした立ち位置分けをしているのに対して、『ナイトウィザード』は純然にバトルでの役割が立ち位置分けの基準と言えましょう。
F.E.A.R社のスタイルが解決策に選んだ手法は「予定調和」と言えます。
従来プレイヤーの能動的行動によっていくらでも変化するのがゲーミングというものでしたが、F.E.A.R社のスタイルはゲーミングやストーリーテリングの展開に明確なゴールを設け、遊び手は各自ゴールに向けて「それぞれの手段(プレイヤーのゲーミング、GMのストーリーテリング)」で発進しなさい。ただしゴールは1つ。
言わば、海賊船に乗り込んで海賊を討伐するシナリオを、海賊を臣従させて乗っ取ってしまうのが従来のゲーミングなのに対して、F.E.A.R社のゲーミングは「沈む海賊船」が予定されており、各自がそう予定された「結」に向かって自分のキャラの立ち位置を基点に演出をしなさいというものなのでしょう。
このスタイルは黒田氏のレベル分けでは解釈できません。
なぜなら、初歩から「Lv5:世界観と連動したキャンペーンの方法」までを、すべて初心者に求めており、しかもそれは成功しているからです。なぜ成功するかと言えば、F.E.A.R社のゲームは「1タイトル1キャンペーン」が基本で、キャンペーンをすれば全国津々浦々、どこの卓でも同じ目標に向かって進むからです。『ナイトウィザード』ならエミュレイターから地球を守り、『アルシャード』ならシャードを守ってアスガルドを目指すという「王道」から外れないのです。
参加者全員が「王道」を進むのだから、プレイ技術のレベル上達はとても早くなります。その反面、予定外行動における多様性はまず発生しません。従って、そっちの方向での成長はF.E.A.R社のゲームでは望めません。
この「王道」プレイはおそらく『TORG』の影響かもしれません。
このF.E.A.Rスタイルは一見完璧に見えます。
だが、参加者全員が予定調和に忠実であることを求めるこのスタイルは、「邪道」ができない空気を生んでいることですでに第3期トラブルを抱えています。
端的に言えば、キャラクターを作り終えた時点で、どんなキャラクターでも「どうように行動し、どのような活躍をするか」が決まってしまうのがF.E.A.R社のキャラクターです。後はその「期待」に沿えるか沿えないかだけがプレイの基準であり、残りのキャラクターの個性などは刺身のツマ、プレイヤーが勝手にのまもうていていいよな箇所に過ぎません。
『トーキョーN◎VA』を扱っているWebサイトは多く見受けられますが、どのサイトも山のようにキャストを掲載しています。1人のプレイヤーが用途にあわせて5、6人のキャラを持つことなんてザラです。
それでも、プレイ中ともなるとニューロやトーキーを急遽ゲストで作らんといかん展開になるし。どうして毎度毎度、妖魔退治をしている武道家の少女(カタナ、カブト、チャクラがキーでバサラ、マヤカシがペルソナ)ばっかりやりたがるんだ皆さん。
異常です。
これも1つのキャラができることが終始固定されているゲームの宿命でしょう。
よって第3期トラブルとして、
3:予定調和による「王道」を目指すプレイスタイル故に、1回のプレイでてぎる多様性の幅が狭く、遊び手は「色々なことをしたい」という欲求を消化しきれずにどん詰まりを起こすトラブル(第3期トラブル「王道」)
が起きることを予測しておきましょう。
F.E.A.R社のゲームに対する不満も、結局の所ドラクエをそう何度も繰り返してプレイできるかというコンシューマーRPGの不満点と一緒なのでしょう。物語としての完成度を求めるあまり、多様性を失いかけているのでしょう。コンシューマーの方は物言わぬ機械相手だから何を言ってもムダですけど、人間相手のTRPGなら何か言えば対応してくれるのではないかという期待感を持たせてくれますので中々表面化しないだけです。
グループSNEが往時の勢いを失っている現在、当分はF.E.A.R社のゲームと、それに養われたゲーム感覚の持ち主がTRPGの現場に台頭し続けるでしょう。だが、F.E.A.R社のゲームはコンシューマーなどのエンタメ作品に似通った世界観が多く、自然と大風呂敷になります。
誰もが、世界を破滅から救ったり、化け物として世間の弾圧と戦わなければならないシチュエーションなのです。コンシューマーゲームはいくらでも時間を投資してキャラを鍛えたり、攻略法を読んだりして事前準備をすることができますが、TRPGは数時間という時間制限もあれば、他のプレイヤーへの配慮もあります。コンシューマーゲームなどに比べて、かなり遊び手に余裕がないゲームと言えましょう。
そして、現在ではまた世の好みが変化してきています。
『ソードワールド』以来、TRPGゲーマーの伝統的性質かと思われてきた物語再生装置への期待感がMMORPGの登場によって、薄まってきているのです。『ラグナログオンライン』などの箱庭的世界観のゲームが隆盛し、それによって物語を追体験する楽しみのみがゲームの楽しみではないことを多くの人が認知しました。
そういうまったりとゲーム世界を共有したい人の需要に応えた作品が『アリアンロッドRPG』と言えましょう。これに『無限のファンタジア』なども加わって、「王道」スタイルが席巻していたTRPG業界に楔を打ち始めています。
とりあえず、歴史の開陳はここまでです。
第1期、第2期トラブルは、ともに「これ以上TRPGは面白くならない」という絶望感に苛まれてTRPGをリタイアする性質でしたが、第3期トラブルは次の世代が比較的楽な性質なので、逼塞しなければゲーマーの大量離脱は防げるかと思います。
だが、大風呂敷な世界観でないとエンタメとして楽しめる自信がない人は逼塞するかと思います。
あんなゲームですから、さぞかし「個別のゲーム感覚」が養われていそうですし。
TRPGでリタイアする人の多くが、少なからず自己の限界に立たされています。
黎明期のボードゲーム世代より後の世代は、一貫してソリティア(1人遊び)型のゲームやエンタメ作品のコンシューマーとしての感覚が身に染み付いています。彼らに共通するのは、まず個人が望む楽しみ方を求める傾向があることです。
ダイスバトルを楽しむ者。
ストーリーを楽しむ者。
キャラクタープレイを楽しむ者。
今まで「TRPGの楽しみ」とされてきたことは、ほとんどが「個別のゲーマーとしての楽しみ」なのです。
野球で言えば、ピッチャーの楽しみ、バッターの楽しみだけで野球の楽しみを語ろうというのと同じなのでしょう。それぐらい、TRPGは多人数参加ゲームであることに無頓着でした。
その端的な例が、キャラクターと観念が発達し過ぎてしまったゲームメディアでの「萌え」です。
ゲーム感覚を知的研鑽で磨くのと、ゲームに萌えることの区別がつきづらいってのもTRPGにおけるノリの難しさの一因と言えますし、ゲーマーが個別のゲーム感覚の陥穽にハマる原因であるのでしょう。
簡単に言えば、知的研鑽ってのは跡で他の人と共有する共通認識として憶える情報ですけど、萌えってのは本人の脳内にある「お気に入りフォルダ」でしか確認できない非具体的な情報です。
TRPGが勝手知ったるプレイ仲間でも、コンベンションでの一期一会の付き合いでも、複数の人間と時間を共有して楽しむゲームである以上、TRPGに必要な情報は共通認識を溜め込む知的研鑽の方がしっくりきます。
ところが、これもゲームメディアの発達が原因なのでしょうか、萌えのために情報を溜め込む人は年々多くなりこそすれ、減ることはないです。他人と共有しない、自己満足のために映画を観て、漫画を観て、アニメを観ます。
自己満足ですから客観視する要素が何もなく、漠然とした「好き・嫌い」の主観のみが情報を分別する基準となってしまいます。こういう人に他人の評論など真摯に受け止めるような感覚はまったくなく、好きだから追従萌えし、嫌いだからバッシングする。
情報に対して、追従萌えするかバッシングするしか湧かない脳ですから、とてもゲームを共有してプレイをしていくなどできっこありません。せいぜい、自分の萌えをキャラ萌えで吐露するか、人様の共有感をキモいと蔑むか程度でしょう。
本質的には、自惚れと他者蔑視で成り立っている「萌え人」ってのは自意識が肥大化した意識デブなんですし、やがては変人扱いされ消えていく運命が待っています。
TRPGのために情報を溜め込むのは有益なことです。
だが、それは他のプレイヤーと共有し共通認識として昇華させてこそ活きるのであり、自分のお気に入りフォルダに入れて萌えても、自分を腐らすだけで何の益ももたらさないのです。
個別のゲーム感覚に限界を感じる人は、要はソリティアとしてのTRPG、萌えとしてのゲーム感覚に限界を感じているのです。そして、現在ではコンシューマーであらずばゲーマーにあらずという時代ではなくなっています。自分1人が個人的に楽しめればいいという時代は、集団がまったりと空間を共有できるオンライン環境によって徐々に絶対の価値観から外れようとしているのです。
今後、TRPGは従来の「個別のゲーマーとしての楽しみ方」をプレゼンするのではなく、集団で共有してこそ発揮できる楽しさに向けてデザインしなければ、個別のゲーム感覚の限界を超える問題を解決することはできないでしょう。
そして、それはTRPGゲーマー個々人の感覚にも求められていることなのです。
まずは、集団……卓のみならず、自分も仲間もいない第三者卓のことも考えて……が共有し、教導構築することを前提として、もう一度、ゲームプレイングとゲーミング、マスタリングとストーリーテリングの在り方を考え直してみることが大事かと思います。
ダイスを振る楽しみではない。
演技をする楽しみではない。
キャラクターに萌える楽しみではない。
集団でゲームをすることの楽しみを、まずは考えてはみませんか。
◆◆◆
今回、叩き台としたBlog記事は以下の通りです。
・『サム・スペードの末裔と生天目仁美さん 〜TRPGにおける知的研鑽と萌え〜』(2005/2/26)
http://ugatsumono.seesaa.net/article/2150356.html
・『インタラクティブの居場所』(2005/4/7)
http://ugatsumono.seesaa.net/article/2823326.html
・『うつむく萌りんにTRPGを 〜カオスとゲーミング〜』(2005/4/18)
http://ugatsumono.seesaa.net/article/3019167.html
・『回転翼1号と2号 〜ゲーム感覚と感覚論争の内実〜』(2005/6/13)
http://ugatsumono.seesaa.net/article/4332157.html
・『TRPGがたどった問題点たち 〜ScoopsRPG記事プレビュー〜』(2005/6/28)
http://ugatsumono.seesaa.net/article/4628296.html
回転翼(2005.7.3)
この記事はScoops RPGを支える有志の手によって書かれたもので、あらゆる著作権は著者に属します。転載などの連絡は著者宛てにしてください。