第一章 ゲームとは何か


ボードゲーム
トランプゲーム
体を使うゲーム
子どもたちのゲーム
コンピュータゲーム
世界の再現
インタラクティブ性
対立関係
安全性

 ゲームとゲームデザインについて理解するためには、まず、基本的な定義をはっきりさせておかなくてはならない。いわゆる「ゲーム」という言葉の表すものを、明確に示すことが必要である。さらに、すべてのゲームと呼ばれるものの基本的な特徴を示さなければならない。まずゲームを定義することの難しさについて述べた後に、個々のゲームをその特徴によって分類しよう。その上で、すべてのゲームに関して共通する、ゲームの本質といえるものを提示していきたい。

 ゲームは、人間の存在そのものと根源から関係している。そのため、ゲーム用語はいつしか、本当の意味でゲームとはいえない活動を表すのにも使われるようになってしまった。特に英語のplayやgameといった単語には慣用句が多く、協力するふりをするとか、計略をめぐらすとか、場合によってさまざまな意味に使われている。このように、人間の活動の中にゲームの概念があまりに浸透しているため、ゲームの本質を理解する上でふたつの問題が出てきてしまった。

 第一の問題は、ゲーム用語があまりにあちこちに広まってしまったために、ゲームとは何かということを理解したつもりになってしまっていることである。そのために、ゲームに対して学術的な分析を行うときに必要な、注意深い細かな見方ができなくなってしまい、ゲームデザインがいかに複雑なものであるかということを安易に無視しがちになっている。その結果、プログラミングの技術しか持っておらず、プレイヤーとしての経験しかないようなずぶの素人が、ゲームデザインを引き受けることになっている。なまじ、ゲームについて理解した気になっているために、正しいゲームデザイン論を学ぶ機会を失っているのだ。

 第二の問題は、ゲーム用語が指し示す範囲があいまいなことである。言葉の意味を広げすぎてしまったため、その本来の意味は薄められてしまっている。もはや、いま我々が理解しようと努力している「ゲームとはこれこれだ」などという、はっきりとした概念は存在しない。ゲームデザイナー同士がゲームデザイン論について語り合うことができるような、明確に定義された言葉がないのだ。言葉の意味があいまいであるがゆえに、ゲームデザイン論はしばしば不毛な論争となったあげく、崩壊してしまう。ゲームデザイン論を始める前に、ゲーム用語のまわりに生い茂っているあれこれを、メスなりブルドーザーなりを使って取り除いてやる作業が必用なのである。

 というわけで、本論に入る前に少し後戻りして我々の立場について論じておこう。ゲームと呼ばれているものをざっと見渡して、その大まかな分類について簡単に紹介する。個々のゲームに関する記憶を呼び起こすことで、ゲームの本質に関する細かな分析に入る前に、いくつかの点を指摘することができるだろう。ここでは、ゲームを以下の五つに分類する。ボードゲーム、トランプゲーム、体を使うゲーム、子どもたちのゲーム、そしてコンピュータゲームである。

ボードゲーム

 まずは、ボードゲームから始めよう。ボードゲームには、いくつかの領域に分割されたゲームボードが用いられ、その上で複数のコマが配置され、移動させられる。よくあるルールでは、一個一個のコマが直接プレイヤーと関連付けられている。そして、ボードはゲームを行う環境を提示するだけで、プレイヤーは直接ボードそのものに影響を与えることはできない。プレイヤーは自分のコマを動かすことで、人のコマを取ったり、ゴールに向かったり、領土を広げたり、その他いろいろな勝利条件を目指す。ボードゲームにおけるプレイヤーの最大の関心事は、各自のコマがボード上でどんな位置関係にあるかを分析することである。

トランプゲーム

 次は、トランプについて見てみよう。一般的なトランプゲームは、ふたつの要素(1から13までの数字と、スペード、ハート、ダイヤ、クラブの四つのスート)の組み合わせからなる、52枚のカードを使う。ゲームは、そのふたつの要素の組み合わせを中心として回っていくのだ。プレイヤーは、ランダムにしろ、何かの順番にしろ、ルールで定められた方法にしたがってカードをやりとりする。ルールで決められたそれぞれのカードの組み合わせが勝利点となり、ゲームの結果に影響する。プレイヤーは、いま持っているカードから期待できる組み合わせを考えて、それを完成させるのに必要なカードを手に入れる可能性を吟味しなくてはならない。もちろん、その可能性には、その組み合わせで得られる勝利点がどれほどかということも考慮されている必要がある。しかしながら、考えられる組み合わせの数があまりに多いために、正確な確率の評価は人の手に余ることが多く、結局はプレイヤーの直感を鍛えることになることが多い。ここでは、プレイヤーの第一の関心事は、カードの組み合わせを分析することである。

体を使うゲーム

 古くからある別のゲームのひとつに、体を使うゲームがある。こういったゲームでは、精神的な能力よりもむしろ肉体的な能力の優劣が強調される。ここでは、ルールによって厳格にプレイヤーがやって良い、あるいはやらなくてはならない体の動かし方が決められている。いかに勝つために自分の体を効率良く動かすかが、体を使うゲームにおけるプレイヤーの第一の関心事である。

 ここで、ゲームと競争の違いには注意しておかなくてはならない。たとえば、マラソンなど、一般にレースと呼ばれている競技は、ゲームではなく競争である。競争とゲームを分けるものこそが、すべてのゲームに共通するゲームの本質のひとつである。それは、プレイヤー間の相互作用、インタラクティブ性の大小である。理屈の上では、徒競走中の選手は相互作用をしていない。個々の選手がそれぞれぱらばらに、ストップウォッチと戦っているだけなのだ。他の選手がいるかどうかは大して重要ではないはずだ。ところが、現実には、個々の選手が精神面で相互作用するため、ある選手の記録が別の選手の記録に影響することになる。レースの種類によっては、選手(ドライバーでもパイロットでも艇長でも何でも良い)は、自分が優位に立つために、他の選手の進路を塞ぐこともできる。すなわち、個々の参加者が他者と関りを持たずに、自分の成績を上げようと努力するようなものが最も単純な競争であり、参加者同士の相互作用があるような競争こそが、すなわちゲームなのである。

子どもたちのゲーム

 子どもたちのゲームも、ゲームの一形態である。かくれんぼ、おにごっこ、かんけりなどがその例だ。こういったゲームはしばしば、単に体力だけが強調された集団ゲームのような形を取る。これらのゲームも単純な形ながら体力、精神力の両面を持ってはいるが、子どもたちにその能力の限界に挑ませようとか、そういう意図を持ったものではない。子どもたちのゲームにおけるプレイヤーの関心事は、いかに社会的なスキルを使うかである。それは、本当の人間社会における人間関係への基礎となっている。

 子どもたちのさまざまな行動が、しばしばゲームであるといわれることがある。たとえば、子どもが、剥ぎ取った木の皮に向かって話しかけ、それを振り回し、びゅんびゅんという音をさせるとき、いかにもゲームをしているように見える。しかしながら、この本では、このような遊びはゲームとしては考えない。このような、ルールのない即興的な遊びは、ゲームの本質論を論ずる上で不適当だからである。

コンピュータゲーム

 いよいよこの本の主題である、いま流行のコンピュータゲームである。まずは、その概略だけを簡単に見ていこう。いま、コンピュータゲームが走っているコンピュータには大きく分けて次の5種類が有る。高価なアーケード機、ゲームウオッチに代表される安価なハンドヘルド機、アタリ2600 (ATARI 2600) や アタリ5200 (ATARI 5200) のようないわゆる家庭用ゲーム機、そして、パソコンとメインフレーム機である。多くの場合、コンピュータはゲームの中でプレイヤーの対抗者やレフリーをつとめる。グラフィックアニメーションを動かすのもコンピュータだ。コンピュータゲームの代表はアクションゲーム (the skill and action: "S&A" game) であり、動体視力と手先の素早さを競うゲームである。アクションゲームの中には本質的に暴力的なものも多い。その他にも多種多様なコンピュータゲームが存在する。たとえば、アドベンチャーゲーム、ファンタジーロールプレイ、ウォーゲームなどだ。しかし、コンピュータゲームをざっと見た感じでは、そういったその他の種類のゲームは、アクションゲームと比べればその影に隠れてしまうほどの量になってしまうだろう。

 さて、これでとりあえずゲームの世界をざっと見て、そのおおざっぱな分類について述べたことになる。コンピュータゲームの分類と、その本質の抽出は後に回そう。ここで、我々の最初の質問に戻らなければならない。そう、「これらすべてのゲームに共通するものとはいったい何だろうか」という質問に。この質問に対して、私は四つの解答を提示しようと思う。それは、世界の再現、インタラクティブ性、対立関係、そして安全性である。

世界の再現

 ゲームとは、クローズドで形式的なシステムであり、現実世界の一面を主観的に再現するものである。難しい言葉を並べてしまったが、それぞれの言葉について細かく説明して行こう。

クローズド

 「クローズド」とは、ゲームがそのルールの中で完全であり、それだけで成立しているということである。すなわち、ゲームが表現しようとしている世界がそのルールだけで表現され、ゲームの外にいる者たちが他に資料を探したりしなくて済むということだ。デザインに失敗したゲームの中には、この条件を満たしていないものもある。そのようなゲームでは、ルールに書かれていないような状況に陥るたびに、ルールの解釈に関して論争が始まってしまう。状況に合わせていちいち、ルールを拡張しなくてはならないのだ。喧嘩にもなるだろう。きちんとデザインされたゲームならそんな心配はない。クローズドなゲームは、ゲーム中に起こりうるすべての事象をルールがカバーしているのである。

形式的

 「形式的」とは、単に、ゲームに明確なルールが存在するということを意味している。中には、ルールがおおざっぱに記述されていたり、故意にあいまいになっていたりする、形式的でないゲームもある。しかし、そういったゲームは、ゲームの本流とはとてもいえないだろう。

システム

 「システム」という言葉はとかく誤用されがちであるが、ここではまさに正しい意味で使われている。互いに、ときには非常に複雑に相互作用する、ゲームの構成要素の集合体。それこそまさに「システム」である。

現実世界の一面

 私は「現実世界の一面」という言い方をした。「一面」という言葉の意味は容易に理解できるだろう。ゲームが現実そのものでない以上、ゲームの中に本当の現実があるはずはない。すなわち、ゲームが表現するのは、たかだか「現実世界の一面」なのである。その中から、どの部分を取り上げるかによって、ゲームの目指すものが決まってくる。むやみにいろいろなものを詰め込めば、再現される現実世界が大きすぎてやたらとややこしいものになり、プレイヤーの理解を越えてしまうだろう。それは、ゲームから、最も大切な「焦点」を奪ってしまうことになる。

主観的に再現する

 世界の再現は、コインのようにその両面を持っている。すなわち、その世界を客観的に見るか、主観的に見るかという両面である。これらは決して相容れないものではない。主観は客観から生じ、客観は主観から影響を受けるものだからである。ゲームにおいてもその二者は互いに絡み合っているが、主観的な面のほうが強調される。たとえば、ゲームの中で数百匹ものエイリアンを虐殺したところで、それがプレイヤーの現実世界にそのまま反映すると考える者はいないだろう。しかし、彼がプレイしているゲームには、彼が現実世界をどう思っているのかが非常によく表れているかもしれない。ここで、「彼のやっている殺戮は、彼の心に深く染み付いている不満のはけ口となっている」などという精神分析を始めたりして、この論文をあさっての方向に持っていく気はない。しかし、彼の心の中で単なるエイリアンの殺戮以外の「何か」が起きているのは間違いのないところだろう。それが何であるかを明確に示す必要はない。プレイヤー自身が心の中に想像した世界を反映した何かである、ということを理解しておくだけで十分である。

 すなわち、ゲームはプレイヤーにとって主観的な、決して客観的ではない何かを再現するものなのである。ゲームの世界は、客観的に見れば決してリアルではない。ゲームの中で起きているようなことは、現実にはできないのだから。しかし、プレイヤーの主観の中では、それでも十分にリアルな世界を再現することができる。客観的に見て荒唐無稽な状況を臨場感あふれるものに変えるのは、プレイヤーの想像力である。このように、すべてのゲームにおいてプレイヤーの想像力は重要な役割を果たす。ゲームが再現するのは、科学的モデルではなく、プレイヤーの想像力を刺激する世界なのである。

ゲームとシミュレーションの違い

 主観的な世界の再現と、客観的な世界の再現の違いは、ゲームとシミュレーションの差を考えるとわかりやすい。シミュレーションは、実際に起きる現象をさまざまなパラメータを用いて精密に表現しようとする。一方、ゲームでは、その現象をできるだけシンプルに表現しようとするのだ。シミュレーションの研究者は、あまりに複雑で計算が追いつかないとか、現象がややこしすぎて理解できないという場合に、仕方なしに現象の単純化を行う。それに対して、ゲームデザイナーはデザイナー自身が一番大事だと思っているパラメータにプレイヤーの意識を集中させるために、喜んで現象を単純化するのである。両者の目的には明確な差があるのだ。シミュレーションは、何かを計算したり評価したりするために行われるのに対して、ゲームは娯楽のため、そして何かを教育するために行われるのである(もちろん、その中間的なものも存在する。たとえば、教育のためにシミュレーション的な要素の多いゲームが行われる場合など)。シミュレーションには正確さが不可欠であり、ゲームには簡潔さが要求される。もちろん、シミュレーションの技法は、ゲームと深い関係を持っている。絵画を描くためには、筆の使い方を知る必要があるように。しかし、ゲームは決して単なる小規模のシミュレーションではないのだ。そこには、シミュレーションに不可欠な細部の精密な描写が抜けているのだから。ゲームでは、精密な描写は、デザイナーがプレイヤーに伝えたいと思っているものを際立たせるためにあえて省略されているのである。すなわち、シミュレーションは詳細な表現を重んじ、ゲームは様式的な表現を重んじているのである。

 たとえば、パソコン用のフライトシミュレータとアーケードゲームの『レッド・バロン』 (RED BARON) の違いを考えてみよう。どちらも、プレイヤーが航空機を操縦するし、マイクロコンピュータ上で動いているという点でも同じだ。しかし、フライトシミュレータが失速、ロール、錐揉みといった非常に多彩な現象を再現しているのに対して、『レッド・バロン』では何ひとつとして再現できない。事実、『レッド・バロン』でプレイヤーが操る戦闘機は極めて非現実的なものである。失速、ロール、錐揉みはおろか、地面に墜落させることすらできないのだ。飛行中に操縦桿を放しても、自動的に水平飛行に移るのである。だからといって、『レッド・バロン』がフライトシミュレータよりも劣っているというわけではない。『レッド・バロン』は、本物の飛行機の操縦を楽しむゲームではなく、空中戦を楽しむゲームなのだから。もし、ただ空を飛ぶためだけに複雑な操縦テクニックが必要だとしたら、ほとんどのプレイヤーがゲームを楽しむことができなくなってしまうだろう。『レッド・バロン』のデザイナーは、細かな操縦テクニックの部分をすっかり削ぎ落とすことで、プレイヤーの意識を空中戦に集中させたのである。その飛行が現実的ではないということは、ゲームの目的をプレイヤーにはっきりと提示する上で、欠点ではなく利点なのである。もちろん、フライトシミュレータでそんなことをすれば、欠点になってしまうことは間違いない。

世界の再現に関するまとめ

 ゲームは主観的で、あえて単純化されたイメージとしての現実を再現する。それは、客観的に見て現実を忠実に再現したものではない。現実の精密な描写は、プレイヤーの想像力を助ける場合にのみ必要とされる。プレイヤーの想像力こそが、ゲームをリアルだと感じさせるための鍵なのである。

インタラクティブ性

 世界を静的なものとして再現する表現手段が存在する。たとえば、絵画や彫刻は、刻々と流れる時間のある一瞬を切り取って表現する。一方、世界を動的なものとしてあらわす表現手段も存在し、映画、音楽、そしてダンスなどがそれにあたる。時間の中での変化を表現するのだ。動的な表現は、静的な表現よりもより豊かに変化を表現することができる。しかしながら、現実世界を表現する上で最も魅力的なのは、現実世界がある一瞬にどうだったかでも、それがどう変わるかでもない。それがどうやって変わって行ったかなのである。互いに複雑に絡み合った原因と結果のもつれあい、それが最も魅力的なのだ。観客たちになぜそうなったのかを十分に伝えるためには、彼らに隅から隅まで覗き込むことを許して、事件の原因を作り、その顛末を観察することを可能にするしかない。そう、最も完全で高度な世界の再現手法は、観客が参加できるインタラクティブな方法なのである。ゲームは、インタラクティブな一面を持っており、これが非常に重要な役割を果たしている。

ゲームとパズルの違い

 ゲームのインタラクティブ性を理解してもらうために、ゲームと、パズルやその他のインタラクティブ性のない競技を比較してみよう。ルービックキューブとまるばつ、あるいは走り高跳びとバスケットボールを、それぞれ比べてみると良い。どちらの場合もプレイヤーに課題を与えるという点では同等である。大きな違いは一方はインタラクティブであり、他方はそうでないということだ。ルービックキューブはプレイヤーが歩いていようが座っていようが関係ないし、走り高跳びのバーは選手がどんなに努力していたかを知って落ちずにふんばるわけでもない。それに対して、まるばつやバスケットボールでは、相手の知識や反応がプレイヤーの行動に直接関係してくるのである。

 ゲームとパズルの差は、状況を少し変えるだけでほとんどなくなってしまう。パズルや運動競技をゲームにすることもできるし、その逆も可能だ。たとえば、チェスはまさにゲームの一種だが、それが元になった詰めチェスはパズルである。ゲームは、他のいろいろなものを取り込むことができるのと同じように、パズルをその一部として取り込むことができる。ほとんどの場合、パズルはゲーム全体の中のほんの一部である。パズルに重きをおいているゲームは、そのパズルがいったん解かれてしまうとその価値を失ってしまうだろう。

ゲームと物語の違い

 ゲームにおけるインタラクティブ性の役割を別の面から見るために、今度はゲームと物語を比較してみよう。物語とは、言い替えればいくつもの原因と結果を時系列に並べたものである。そこに現れる出来事は、フィクションであることも多い。なぜなら、物語の中で個々の事象は本質的には重要でないからである。事実、個々の事象は重要ではないという観点に立てば、フィクションという言葉の持つ本当の意味、すなわち「真実ではないが嘘ではない」ということが理解できるだろう。個々の事象の因果関係こそが、物語において重要な役割を果たすのである。たとえば、『スター・ウォーズ』 (STAR WARS) を見て、「ルーク・スカイウォーカー」 (Luke Skywalker) や「デス・スター」 (Death Star) が実在するものであるかどうかを気にする者などいないだろう。そこには「ルーク」の純粋で正義感にあふれた行動、「デス・スター」の邪悪さ、そして、「ルーク」が「デス・スター」を倒す姿が描かれている。我々はこの物語を見て、「正義は必ず悪に勝つ」という因果関係を思い浮かべるのである。このように、物語とは現実を再現するためのひとつの方法であるが、それ自身が現実を再現するのではなく、その中で描写される事象の因果関係によって現実を再現するのである。

 ゲームもまた、現実を再現しようとする。ゲームと物語の差は、物語では描写される事象が固定されているのに対して、ゲームではプレイヤーの選択によって枝分かれしうるという点である。物語を鑑賞するときは、一本道に沿った事象の連なりによってその因果関係を追っていかなくてはならないのに対し、ゲームのプレイヤーは、その事象の逆、裏、対偶を探すことで、よりその因果関係をはっきりさせることができる。ゲームプレイヤーはより多くの角度から物事を見ることができるのだ。

 事実、プレイヤーは違う展開になることを期待して、毎回違った戦略でゲームをプレイする。それに対して、物語はどうしても一度きりになりやすい。二度三度と繰り返し読んでも、新しい情報がなければ感動は薄れていってしまうのである。ゲームの与える感動は、プレイヤーがすべての別れ道を行きつくすまで尽きることはない。

 私は、ゲームが物語よりも優れているなどと言いたいのではない。物語の中で描き出される事象は、確かに一過性のものだが、それゆえにゲームよりもより複雑に、より詳細に描写することができる。細部の描写こそ、物語の成功の鍵である。観客は、細かな描写から産み出される現実味により、作者が期待した印象へと導かれる。一方、ゲームデザイナーは、悪知恵をめぐらしてたったひとつの真実をあちらこちらから見せるような複雑な幾本もの筋道をつむぎだす。この点から、物語は、彫像的であり、ゲームは宝石的であるということができるかもしれない。彫像は、その細部の描写の巧みさに価値があるが、宝石にとって細部は重要ではない。それこそ、宝石の表面は完全につるつるだって構わないのだ。宝石の価値は、いかにさまざまな方向の光を反射して輝くのかにあるのである。彫像は、ある場所に置かれる事によって鑑賞され、宝石は身につけて持ち運ばれることでさまざまな表情を見せる。そう、物語は静的であり、ゲームは動的なのである。

 いまのところ、物語がコンピュータゲームに対して優位に立っている点が存在する。それは、物語は観客に驚きを与えるということである。良くできた物語は、いくつもの面白い筋書きが絡み合ってできている。語り手は、物語をつむぐ中で我々読者にこうなるのだろうなという期待を抱かせ、それをうまく裏切るような、まったく新しいドラマチックな状況を作り出してみせる。こういったどんでん返しは、一連の物語の中で何度も行われる。一方、コンピュータゲームでこういったあっと驚かすような筋書きを与えてくれるのは、アドベンチャーゲームくらいのものだ。残念なことに、こういったどんでん返しを仕掛けるためには、プレイヤーを特定の状況に誘導するために、プレイヤーの行動を制限する必要がある。その結果、アドベンチャーゲームの多くは安易な一本道になりがちである。本当なら、プレイヤーの行動に応じてさまざまに変化すべき物語が、押しつけの安易な一本道になってしまっているのである。本当にプレイヤーを驚かそうと思ったら、プレイヤーの行動を分析し、そこから彼がいま何を思っているのかを読み取り、彼に不満を与えないような方法で、物語的に無理のないどんでん返しを提示する必要がある。いまだ、こんなことのできる人工知能は存在しないが……。

ゲームとおもちゃの違い

 ゲームは、その使用法の点で物語とおもちゃの中間に属する。観客は、物語の中で提示された事物に手を出すことは許されない。ゲームの中でなら、空想世界の事物にプレイヤーが参加することもできる。しかし、その空想世界を形作っているルールは明確に提示されている。一方、おもちゃでの遊び方はもっと自由である。おもちゃは想像力の許すかぎり、どんな風に扱っても構わない。物語の語り手は、聴衆の反応を見ながら彼らの経験を直接制御することができるし、ゲームデザイナーは、プレイヤーの反応を想像することによって間接的に制御することができる。おもちゃのデザイナーは、まったくそんなことはしない。

インタラクティブ性の重要さ

 インタラクティブ性が重要だということには、いくつかの理由がある。ひとつには、インタラクティブ性がゲーム中のイベントに社会性、人間関係といったものを持ち込むということである。その結果、ゲーム中の障害が単に技術的なものから人間関係を反映したものへと変化する。ルービックキューブの色を揃えるのは、単に技術的なパズルに過ぎないが、チェスの対戦は人間的なものである。前者は単に状況からのみ作られた論理パズルを解いているのに対し、後者では対戦相手の心理を読むといった要素が含まれているのである。

 第二に、相互作用は受動的な挑戦を能動的な挑戦へと変化させる。同じパズルは何度解いても同じものだが、対戦相手のいるゲームは、相手の手によって毎回変化する。この差をプレイヤーの感情面から考察してみるのは非常に興味深い。パズルを解こうとするものは、パズルのデザイナーが隠したそのパズルの鍵となるポイントを見つけようとして、考え、推理し、神に祈る。心の中では、パズルの解答者はそのデザイナーと戦っているのである。そのため、いったん、その謎が明らかになってしまえばパズルはその魅力を失ってしまう。一方、ゲームはプレイするたびに違ったクリアすべき障害を与えてくれる。パズルは不変だがゲームは変化する。プレイヤーはそのときどきに、自分と対戦相手の両方のことを考えて最善手を見つけなくてはならない。ゲームとパズルの最大の違いは、パズルではあらかじめデザイナーが準備している解法を見つければ良いのに対して、ゲームでは自分で作り出さなくてはならないということである。ゲームはプレイヤーの存在を認め、その手に対応する。一方、パズルは死んだ魚のようにただ解かれるのを待っているだけなのだ。

 コンピュータゲームで人間の対戦相手がいることはあまりない。そのため、他のゲームと比べると社会的側面は少なくなっている。しかしコンピュータは、対戦者のふりをする疑似的人格を演ずることができる。この部分こそ、コンピュータゲームが最も優れており、また、いまのところ最も開発が遅れている部分である。最もコンピュータに社会性を持たせることが可能かどうかという点さえ目をつぶれば、コンピュータはプレイヤーにたやすくインタラクティブな体験をさせることができる。なにしろ、プレイヤーの動きに、即座に確信を持って対応することができるのだから。

インタラクティブ性の本質

 インタラクティブ性は、あるかないかで表せるような二分木的な概念ではなく、どの程度インタラクティブであるかということを評価すべきものである。パズルには、ほとんど(あるいはまったく)インタラクティブ性は存在しないが、ゲームはそれに比べてずっと人間同士の相互干渉が多い。言い替えれば、インタラクティブ性の大小を、「ゲーム度」 (gaminess) のパラメータとして評価しうるということである。ゲームの中には、ブラックジャックや、コンピュータテニスの『ポン』 (PONG) のように、プレイヤー間の相互作用がほとんどないものもある。プレイヤーがインタラクティブ性を求めたとしても、それは本当に限られている(ブラックジャックでは、カードを引くか勝負するかのどちらか、『ポン』では、ゲームを走らせてパドルを動かすことのどちらかしかできない)。このようなゲームでは、あの手この手でプレイヤーに対することで、プレイヤーの能力すべてを要求するというわけにはいかないのである。その他のゲーム、ブリッジやアメリカンフットボール、『リージョネア』 (LEGIONNAIRE : アヴァロンヒル (Avalon-Hill Game Company) の商標) などでは、明らかにもっと多くのプレイヤー間の相互作用が存在する。プレイヤー同士、さまざまなレベルで勝負しうるのである。インタラクティブ性の少ないゲームは一般に飽きが来るのが早く、インタラクティブ性の多いゲームのほうが面白いことが多い。

 ここで注意しないといけないのは、ここでいうインタラクティブ性というのは、ゲームのメカニックな部分ではなく、むしろそれを見たときの印象というべきものであるということである。『ポン』が無味乾燥なものに見えるのは、私が跳ね回るドットに感情移入できないからなのだ。ブリッジが『ポン』よりも勝れているのは、そこにはペア同士のチームワークやトリックといったインタラクティブな要因が含まれているからなのである。私は、ブリッジにならのめり込める。このようにインタラクティブ性は「ゲーム度」をあらわすパラメータといえるのである。

対立関係

 すべてのゲームに存在する第三の要素は、対立関係である。対立は、ゲーム内でのプレイヤー間の相互作用により発生する。個々のプレイヤーはゲーム中、各自の勝利を目指す。一方で、ゲームシステムが設置した障害が、プレイヤーが簡単にゴールに入ってしまうのを阻止する。この障害が静的でプレイヤーの行動に反応しないものなら、それはパズルか運動競技に分類されるべきものである。一方、動的でプレイヤーの動きに反応して動く障害を設けるためには、知性を持ったものがその障害を動かす必要がある。意識してプレイヤーがゴールに入ることを邪魔しようとする者がいるなら、そこに対立が生ずる。このように、対立関係は、すべてのゲームに共通するものなのである。

対立関係のないゲーム

 世の中には対立関係というものを嫌う人々もいて、対立のまったくない「おきれいな」ゲームをデザインしようとする試みも何度となく行われた。そういったゲームの中では、プレイヤー間の対立関係よりもむしろ協調関係がクローズアップされている。しかしながら、そういったゲームで売れたものはほとんどない。つまり、対立関係のないゲームはつまらないということなのだろう。

 それ以上に重要なのは、対立関係を排除した時点で、すでにそれはゲームではないということだ。対立関係を排除しようとすれば、必然的にプレイヤーの行動に反応して何かをするということができなくなってしまう。反応をさせることができなければ、当然インタラクティブ性もなくなるのだ。対立関係のないゲームはゲームではないのである。

 もちろん、ゲームから対立関係を排除することは不可能だといっても、その対立関係を少しずらすことで、ゲームに協調関係を入れることはできる。チーム内のメンバーは、別の対抗者と対立しながら、互いにチームメイトとして協調することができる。ここでいう対抗者とは、対立チームでも、強力な個人でも、コンピュータが担当しているプレイヤーでも良い。いずれにせよ、対抗者は、プレイヤーたちには一個の人格を持ったプレイヤーとして感じられなければならない。少なくとも、プレイヤーの行動に対して手応えのある反応を示してくれているとプレイヤーに思わせることができなければ、ゲームは崩壊してしまう。

 このような「どぎつい」対立関係がゲームで描かれるのには、社会的な背景がある。現実社会での対立関係は、間接的で長きに渡り、法律でがんじがらめに規制されている。それに加えて、現実社会での対立関係がプレイヤーの完全勝利といった形ですっきりと決着がつくことはほとんどない。たまに小さな勝利は味わえても、決着はつくことなく、対立関係はずっと続くのである。ゲームは現実世界の一面であるから、現実世界での何かを強調してそこにプレイヤーの意識を集めようとする。ゲーム中での対立関係が、多くの場合(必ずしも必要というわけではないのに)暴力的で直接的になりやすいのはそのためである。暴力はゲームにとって不可欠なものではない。ゲームに暴力的傾向が出てきやすいのは、それが対立関係を最も直接的かつ明示的に表現する方法だからである。

対立関係に関するまとめ

 対立関係は、すべてのゲームにおいて不可欠な要素である。直接的であれ間接的であれ、暴力的であれ非暴力的であれ、それはすべてのゲームの中に存在する。

安全性

 対立関係があれば、そこには危険が生ずる。どちらかが傷つくという危険である。だからといって、ゲームの中で本当にけがをさせるわけにもいかない。そこで、ゲームにおいてはプレイヤー同士を空想世界の中で対立させ、危険を味わわせることで、実際に肉体的にぶつかり合うことの代わりにするのである。一言でいえば、ゲームとは現実世界の危険を安全に味わう手段なのだ。正確を期すなら、ゲームの結果は、そのゲームがモデル化しようとした現実に比べて、常により安全なものなのである。モンスターを一日中倒しまくっていたところで、プレイヤーが失うものはたかが100円玉が何枚かである。さっきまで巨大企業を切り回していたプレイヤーが、あっという間に破産に追い込まれたとしても、彼女は子豚の貯金箱を割る必要はない。強大な軍隊を国歌の浮沈がかかった絶望的な戦争に投入しても、一滴の血も流れない。無常な因果応報、次々と来る悲劇、堪えがたい結果。皆、ゲームの中ではよく使われる題材である。

 このことは、ゲームの結果は重要ではないということを意味しているわけではない。ゲームに負けるかもしれないという思いは、ときにゲームをやりたくないという感情へとつながる。他人に負ければ、多かれ少なかれ名誉を失うのだ。この点ではコンピュータゲームのほうがましだろう。コンピュータに負けるほうがまだしも恥ずかしくはない。敗者は、面目を保ったまま、何度でも再挑戦できる。それに加えて、コンピュータを完全に打ち負かすような完全な勝利は普通不可能なので、負けてもまあいいかという気持ちになりやすいのである。

 敗者に課せられた別のペナルティとしては、そのゲームに勝っていたら貰えたかもしれない報奨を失うということがあげられる。多くのゲームにおいて、勝利したときに得られる報奨は、負けたときに失うものよりも大きい。すなわち、負けた者を打ちのめすというよりも、勝者をほめたたえる構造となっているのである。敗者が失うものは、ゲームに参加するためのチップのようなものでしかない。これは、通常、非常に安価で、敗者に対するペナルティというよりは、ゲームを開催するためのサービス料というべきものだろう。

 ゲームの安全性というものを考える上で、ギャンブルは少々厄介な問題となる。ギャンブラーたちは、彼らの現金や持ち物を、完全にランダムかあるいはそれに近いような現象に賭ける。敗者は掛け金を失い、勝者はそれをごっそり手に入れる。そう、ギャンブルはギャンブラーたちを実際に破産の危機に誘う可能性があるのだ。しかしながら、ここでふたつの例を考えておかねばならない。第一の例は趣味のギャンブラーで、彼らは本当に小額しか賭け事には使わない。第二の例は、確率の法則を無視したがるギャンブラーである。彼らは、確率をコントロールできるという幻想に耽っている。ダイスを振るときの気合いのかけかた、スロットマシンのレバーの握り具合、そんなもので勝敗が左右できると信じているのだ。つまり、こういうことになる。趣味のギャンブルは、本道からは離れているとはいえゲームの仲間ということができるだろう。しかしながら、本当のギャンブル、大金が動き趣味よりも金儲けが目的となるようなギャンブルは、ゲームとの境界線の外にあると考えるべきなのだ。

 ギャンブルの一例ではあるが、ポーカーに関しては特に考察しておく価値があるだろう。ポーカーは、ブラフ、はったりをいかに使うかというゲームである。ポーカーで勝つためには、対戦相手に自分の手札を現実よりもより良く、あるいはより悪く見せなくてはならない。お金がかかっているからこそ、プレイヤーは懸命に対戦相手をだまそうとする。他のギャンブルでは単なる賞金に過ぎない掛け金が、ポーカーにおいてはそのゲーム構造の根幹に関わっている。この点を考慮すると、ポーカーもゲームの一種とすべきだろう。

安全性に関するまとめ

 ゲームは、現実を仮想体験するための安全な方法を与えてくれる。例外は多々あるけれども、基本的にはゲームは安全である。この章では、私が考える「ゲーム」に共通するいくつかの特徴について論じてきた。この章では、かなりの部分を使って、プレイヤーの動機よりも、ゲームの本質とは何かということを強調してきた。しかしながら、このようにプレイヤーとゲームの関係を無視して考えていくのは、不自然であるし誤解を招きやすい。プレイヤーとゲームは切っても切り離せないのである。次章では、プレイヤーにスポットをあて、その動機について考察して行こう。


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