第二章 人はなぜゲームをするのか


 空想世界の探求
 反社会的行動
 優越性の誇示
 社会の潤滑油
 能力の維持
 認識の欲求
 動機に関するまとめ
動機と選択の違い
 ゲーム性
 感覚的満足感
個別の嗜好

 ゲームには、ふたつの要素が必用である。プレイするゲームそのものと、それを遊ぶプレイヤーだ。ゲームデザイナーの目的はゲームの制作であり、当座の関心がゲームそのものに向けられるのは仕方がないことだろう。しかし、プレイヤーにゲームを楽しんでもらったり、ゲームから何かを学んでもらい、啓発したりすることこそが、ゲームデザイナーが目指すものなのであり、当然、人間のプレイヤーこそ、ゲームデザイナーの最終的な関心事となるべきなのである。人はなぜゲームをするのか? 彼らを動機付けるものは何か? ゲームを面白くするのは何か? これらの問いに答えていくことは、良いゲームデザインを目指す上で極めて重大である。

 この問題に取り組むひとつの方法は、ゲームの歴史を調査することである。現在のゲームは、あまりにも多彩で複雑になってしまい、ゲームとは何かという明確な解答を示す目的には向いていない。歴史をゲームの原初にまで遡ることができれば、ゲームの根本的な性質は、おそらく、より明白なものとなるだろう。どれくらい遡る必用があるのだろう? 大恐慌の間に作られた『モノポリー』 (MONOPOLY) までだろうか? いや、トランプはもっとずっと昔から遊ばれていた。それどころか、ツタンカーメン王の墓の発見者は、そこの財宝の中から、規則的な区切 りが書かれた木の板を見つけ出した。これは何らかのボードゲームと思われている。けれども考古学さえ、我々を十分な過去へ連れて行ってはくれない。ゲームの起源まで溯ることを望むのならば、考古学者の守備範囲を越えて古生物学者の守備範囲に行かなくてはならない。最古のゲームを見つけるためには、何千年どころか何百万年も溯らなくてはならないのだ。ゲームは、歴史どころか人類のすべてに先行するのだから。そう、ゲームを発明したのは人間ではないのである。

 幸い、実際に古生物学を学ぶ必要はない。動物園へ出かければ十分だろう。そこで我々は、二匹のライオンの子どもが、母親の近くで取っ組み合っているのを見つける。彼らはうなりながら、お互いを爪で引っかいたり、噛んだり、蹴ったりする。ある子どもは、歩き回ってチョウを見つけると、草の中にかがんで、その獲物に向かってゆっくり忍び寄り、腰をもち上げてぴくぴく動かし、そして飛びかかる。いかにもユーモラスな情景を見て、「ほら、ライオンの赤ちゃんがゲームをしているよ。楽しそうだね。のんきでいいねぇ」などと言うのだ。

 第一の点は正しい。ライオンの子どもたちは、本当に一種のゲームをしているように思われる。それらの行動の中には、確かに、第一章で述べた四つのゲームの基本特性(世界の再現、インタラクティブ性、対立関係、安全性)のすべてが見られる。第二の点もおそらく正しい。もっとも、ライオンが本当に楽しんでいるかどうかわかる者など、どこにもいないだろうが。

 しかし、最後の点は大間違いである。ライオンの子どもたちはのんきではない。彼らは、子ども時代を気ままに過ごすためにゲームをしているのではない。これらのゲームは極めて真剣な仕事である。彼らは狩りの技術、生き残りの技術を勉強している。獲物に見つからずに接近する方法、飛びかかりかた、反撃を受けずに獲物をつかんで殺す方法といったものを学習しているのだ。彼らは実際の行動によって、しかし安全な方法で学習している。失敗しても良いように、ヌーの角ではなく、チョウや兄弟を相手にするのである。

 このように、ゲームは最も古来の、由緒ある教育手段である。自然淘汰の中で承認されてきた、天然の教育技術である。母親ライオンは、黒板を使って子どもたちに講義したりしないし、高齢のライオンが子孫のために自叙伝を書いたりもしない。これを踏まえると、「ゲームに教育的価値はあるか」という質問は、質問そのものがナンセンスなのである。新奇な概念、試されていない一時的流行、伝統の違反者であるのは、ゲームではなく学校のほうである。ゲームは、学習能力を持つどんな生物にとっても、極めて重要な教育機能なのである。

 どんな動物がゲームをするのかということを考えると、また有益な情報が得られる。ゲームと思われる行動は、哺乳類および鳥類においてのみ観察された。それ以前の系統(魚類、昆虫、両生類、爬虫類)には、ゲームの兆候は見られなかった(オックスフォード大学出版局、ロバート・ファージェン (Robert Fagen) の『Animal Play Behavior』参照)。ゲームは、我々が脳の大きさと関係があるのではないかとあいまいながら考えている知性、学習能力といったものと結び付けられるように思われる。この一致は偶然ではない。ゲームは明らかに、多くの生物が成長するための重要な要素なのである。

 普通、ゲームというと子どもたちのものと思われる。それどころか、活動としての「遊び」はほとんど子どもたちの特権的領域であると考えられており、遊びという言葉は成人に対しては軽蔑的に、あるいはふざけて用いられる。子どもたちがゲームをすることを期待されるのは、我々が、ゲームが教育の道具として有益だということを(おそらくは無意識に)認識しているからである。子どもたちが大きくなるにつれて、文化的圧力は変化し、より真剣な活動ができるように、ゲームをする時間を減らすことを期待される。

 私は、すべてのゲームの基本動機は学習であると主張する。これはゲームの根源的な動機であって、ゲームの重要性の多くがここにあるのは確実である。この主張は、コンピュータゲームが新しい芸術形式を形成するという主張とは矛盾しない。たとえば、人間と食べ物を考えてみよう。食べ物を食べる基本動機は栄養摂取の欲求である。だからといって、栄養摂取とは無関係のテーブルマナーや、食前の祈りの儀式、調味料、付け合わせで食べる、などといった装飾的な活動が制限されるわけではない。これは食べ物が芸術形式であるという意味ではなく、我々人間だけが、本来の目的を否定せずに、そこから離れた活動をすることができるということである。

 では、すべてのゲームの基本動機が学習であるという主張を吟味して行こう。まず、学習という動機は必ずしも意識的なものではなく、意識的には、ゲームが好きだというあいまいな感情が主たる動機となっているという問題がある。しかし、動機が無意識のものだからといって、それが重要でないということにはならない。むしろこの事実は、学習が真の基本動機であるという主張に説得力を与えるだろう。

 次に、ゲームの動機には、学習とほとんど関係のないものが多く存在するということについて考えてみよう。ときには、それらの副次的な動機が、局所的には学習という基本動機よりも重要である場合がある。それらの動機には、以下のようなものが含まれる。空想世界の探求、反社会的行動、優越性の誇示、社会の潤滑油、能力の維持、認識の欲求の六つである。それぞれ順番に見ていこう。

空想世界の探求

 ゲームの動機で非常に重要なのが、空想願望の充足である。ゲームは、映画や本や音楽と同じように、プレイヤーを低俗な現実世界から離れさせ、悩みを忘れさせてくれる空想世界へと連れて行くことができる。ゲームは、プレイヤーの直接的な参加を許すという点で、伝統的な逃避の手段(映画、本、音楽)よりも潜在的に優れている。ただ映画を観たり、本を読んだり、音楽を聴く代わりに、ゲームには能動的に参加することができる。プレイヤー自身がゲームをコントロールするようなことは、従来の受動的なメディアでは絶対に不可能なことである。この逃避の願望を充足してくれる空想は、確実に重要な動機である。

 空想願望の充足は、しばしば象徴的な探求という形式をとる。現実世界では、十分に刺激的な事物や人、場所はなかなかない。我々の大部分は、アスファルトとプラスチックと紙で作られた世界に閉じ込められている。多くの芸術形式は、別の世界へと観客を送り込み、日常生活では得難い経験や感動を与えようと試みるのである。

 たとえば、ディズニーランドがなぜ成功したのかを考えてみよう。ディズニーランドは疑う余地なく、そのジャンルの中で最も成功している。ディズニーランドのような施設は、しばしば「アミューズメントパーク」あるいは「テーマパーク」と呼ばれる。こういった用語は紛らわしい。なぜなら、ディズニーランドが成功したのは、その娯楽性のためだけではないからだ。個々の要素は技術的に優秀ではあるが、その点ではその点では他のアミューズメントパークも、ものすごい乗り物をこれ見よがしに並べている。ディズニーランドの成功理由は一語で現せる。「空想」だ。ディズニーランドは、空想世界を作って、その存在を支援している。ディズニーランドという空想世界の存在を信じさせるためにパークすべての活動がある。訪問者は、パークに足を踏み入れた瞬間、別世界に入ったように感じる。道標、壁、窓、手すりにまで及ぶ細かな気配りが、その世界を信ずるに足る環境を作ったのである。

 空想世界の探求は、人間の遊びの重要な要素である。それは我々の気晴らし、そして芸術とゲームにとっても不可欠なものである。

反社会的行動

 ゲームの共通の機能は、社会的制限を、せめて空想の中で克服する手段を提供するということである。多くのゲームは、プレイヤーを、現実では社会的に受け入れられることのない、海賊や盗賊といった役割に置く。この端的な例は、Automated Simulations社の『クラッシュ・クランブル・アンド・チャンプ』 (CRUSH, CRUMBLE, AND CHOMP) である。このゲームで、プレイヤーは、お気に入りの街でのしのしと暴れ回る、1950年代風の怪獣の役を割り当てられる。パトカーを踏みつけたり、ビルを押しつぶしたり、ヘリコプターを叩き落としたりして、街を大混乱に陥れるのである。このゲームの箱には恐怖におののく市民たちが逃げ惑う中、いまにもIRSのビルをたたき壊そうとしている怪獣が描かれている。こんな反社会的行動もあくまでゲームの中であって、市民もプレイヤーも安全だということで許されているのだ。

 ときには、プレイヤーの役割そのものは社会的に受け入れられるが、その行動が現実では歓迎されないものである場合もある。『モノポリー』は、米連邦通商委員会 (Federal Trade Commission) が「略奪的な貿易慣行」 (predatory trade practices) と呼んでいる行為に携わるように仕向ける。ウォーゲームは、戦争を起こしてそれに勝利するようにけしかける。また、性的な内容を扱い、プレイヤーが実世界ではできないような行動にふけることを許すゲームもある。

 この反社会的行動の最も印象的な例は、アーケードゲームに見られる。暴力を強調するゲームだ。アーケードゲームにおいて、何者かを破壊するというテーマは、至るところに存在する。とどめの一撃は、控えめだったり上品だったりすることは絶対になく、犠牲となる敵キャラは、思い切り派手にアニメーションする爆発とともに殺される。サム・ペキンパー (Sam Peckinpah) の映画のように、暴力は極めて重要な要素であり、目的そのものなのである。さらに、我々が不快な感情を抱かないように、外装を工夫することで、暴力の不快な面を巧妙に覆い隠すようになっている。我々は決して、決して人間を殺してはならない。その代わりとして我々は、醜悪な宇宙のモンスターをやっつけるのだ。モンスターたちは星間の重大な罪を犯したことになっていて、プレイヤーは、防御者、護衛者、復讐者といった役割を当てられる。しばしば見られるのは、「人類の運命は危機にある!!」というような緊急事態を表現するケースである。こういう設定はプレイヤーの緊迫感を高めるし、その上好都合なことに、罪の意識なしに暴力を振るうことをプレイヤーに許し、極端な暴力の使用を正当化してくれる。プレイヤーは、社会的な非難のリスクを背負わずに、暴力と大量殺人に携わることができる。ゲームは、反社会的行動を行う安全な方法を提供するのである。

優越性の誇示

 ゲームのもうひとつの機能は、能力の優越性を誇示する手段を提供することである。すべてのゲームは、多かれ少なかれこの機能をサポートしている。多くのゲームサークルが、トーナメントとかプレイヤーの成績評価といったものを提供する。アーケードゲームは、ハイスコアを収めたプレイヤーのイニシャルを記録し、それを表示することによって、この機能をサポートする。これを極端に推し進めるプレイヤーも存在する。彼らの主目的は、ただ単に勝つことではなく、誰かを、それもなるべく倒す価値のある相手を打ち負かすことである。チェスなどには、こういった「サメ」たちが非常に多く集まる。ウォーゲームも然りである。ウォーゲームのプレイ中に尋ねられる、良くある質問がある。「君は楽しむためじゃなくて、対戦相手を負かすためにゲームをしているの?」というものだ。このようなプレイヤーは普通、彼らのスキルが直接勝負に反映されるような、偶然性が最小限に押さえられたゲームを好む。

 このようなプレイヤーが集まるのは、推論的なロジックゲームだが、実はほとんどすべてのゲームがサメたちにとっての餌をまいている。サメの餌とは、純粋に楽しむためにゲームをするプレイヤーのことである。サメが重大な報酬(たとえば社会的権利)のためにプレイし、そして失敗のリスクが重大なものであるとき、安全性の要素はゲームから排除され、そのゲームはゲームでなくなる。闘争そのものになるのである。

 すべてのゲームが過度に競争的な方法でプレイされる可能性を持っているために、闘争としてのゲームの社会的リスクにとりわけ敏感な若干の人々は、ゲームをすることを拒否する。なぜなら、彼らはゲームが安全であると考えないからである。彼らがゲームをするときは、純粋な運のゲームを好む。サメを封じ込めるとか落胆させるとかいうよりは、むしろ、勝利はプレイヤーの能力に明らかに無関係であるという状況を示すために。勝利がまぐれにすぎないのであれば、社会的リスクは排除され、安全性が復活するわけだ。

 勝利の唯一の決定要素が純粋な運ではないようなゲームを、絶対的な安全性を確保して(すなわち、サメのつけいるスキがないように)デザインすることは不可能である。どんな面であれ、ゲームの勝敗に個々の能力が影響を及ぼす可能性があるのなら、その結果が個人の能力の優劣を反映したものとして受け取られるのも、ある意味当然だからである。ゲームにおける社会的リスクからはプレイヤーの態度によって避けられることが多い。その態度とはすなわち、「これはただのゲームなのだ」という自覚である。

社会の潤滑油

 ゲームは、特に大人にとっては社会の潤滑油として用いられることがある。その場合、ゲームそれ自体は、プレイヤーにとってそれほど重要な物ではなくなる。本当に重要なのは、社交的な夕べを醸し出す余興としての機能である。トランプや、いくつかの軽いボードゲームがこの機能を果たす。このような「社会の潤滑油」としてのゲームの良い例は、大きなプラスチックのボードを利用するゲームである。ボードは約1.2メートル四方の大きさで、さまざまな色のマークがついている。それぞれのプレイヤーの順番がくると、ランダムに、四本の手足のどれをどのマークに置くべきかが決定される。彼らは必然的に、悪意なしに、ユーモラスな方法でお互いの体と触れ合うことになる。社会との交流が、それによって促進されるわけである。

能力の維持

 能力の維持は、ゲームのまた別の動機である。それは頭脳的なものであっても、肉体的なものであっても、その両方の組み合わせであっても構わない。ゲームは、頭脳的能力や肉体的能力を維持するための面白い方法だ。認識力を働かせることを好むプレイヤーもいれば、一方で直感力の使用を好む人もいる。運動能力を鍛えることを好むプレイヤーもいる。さらに、プレイヤーたちは、各々に合ったレベルの課題を必要とする。チェスのプレイヤーがまるばつをしても、簡単過ぎてほとんど鍛錬にはならないだろう。同様に、まるばつを難しく感じるような人がチェスをしても、これも良い鍛錬とはならない。このような理由から、プレイヤーたちはそれぞれ、各々にとって有用な、違ったゲームに取り組むのである。

認識の欲求

 我々は皆、他者から認識されたいという欲求を持っている。我々が切望する認識とは、単に存在を認められることではなく、個性を認められることである。たとえば我々が知人に会うとき、普通は、「やあ、ジョーンズ」というような気のない挨拶をされる。それよりも、たとえば「やあ、ジョーンズ。ひざの調子はどうだい?」というように、特定の個人として認められた挨拶のほうが、我々は嬉しく感じる。

 ペットの人気の高さは、この「認識の欲求」のもうひとつの好例である。いったいなぜ我々は、エサや衛生管理などを必要とする動物を、わざわざ家に置いておくのだろうか。それは、ペットが我々を認識してくれるからだ。我々は、ペットと相互作用することができる。話しかけ、ともに遊び、感情を表に出すことができる。犬は、とりわけ応答的な動物であり、我々の表情を読んだり、声色を解釈したりすることができる。微笑みかければしっぽを振ってくれるし、声をかければ、跳んだり、なめたり、吠えたり、その他の愛情表現をしてくれるだろう。金魚などは、それと対照的に、飼い主を認識したり、感情を表現したりはしてくれない。したがって、金魚のほうが世話をするのはずっと容易であるけれども、たいていの人は、ペットとして犬のほうを好む。人々は、外界による認識という要素を、それを得るのに必要な努力と比べて、十分に高く評価するわけである。

 これは、なぜインタラクティブ性がゲームにとってそれほど重要であるのかという理由のひとつである。ゲームは、二人のプレイヤーがお互いに認識しあうことを可能とする。本当に優れたゲームには、プレイヤーの個性の大部分が現れてくる。そのようなゲームは、個々のプレイヤーによってもまったく違った様相となるだろう。対戦相手は、ゲームを通して、相手の頭のよさ、早急さ、不正直さ、その他すべての性格を認識することになる。ゲームが終わったとき、対戦相手は互いにゲームを始める前よりも、お互いのことを良く知っていることだろう。

動機に関するまとめ

 さまざまな要因が、ゲームの動機として働いている。根源的な(そしてほとんど本能的な)動機は学習であるが、他の要素もそれに続いて、同様に動機として考えることができる。

動機と選択の違い

 人々がゲームをする第一の動機と、実際にどのゲームをするか選択する際の要因とは、区別するように気をつける必要がある。つまり、「人はなぜゲームをするのか」という質問の答は、「ゲームをより面白くする要素は何か」という質問の答からは大きく異なりうる。ゲームをする動機を与える要因はいくつかあるが、その人が特定のゲームを選択する理由はまた別にあるのである。たとえば、感覚的満足感は、このような選択にかかわってくる。特定のタイプのゲームをすることに決めたプレイヤーは、下手なグラフィックのゲームよりも美麗なグラフィックのゲームを好むだろうが、グラフィックだけでは、多くの人々にとってゲームをする動機とはなり得ない。ある動機によってゲームをやろうと思い、その後、好みによって特定のゲームを選択するのである。

 動機と好みを区別するといっても、そのふたつの間に相関関係があることを否定するわけではない。動機を満たすような経験を提供しないゲームを楽しむことはできないのは明らかだ。すなわち、好みと同じようにゲーム選択の決め手となる動機というのも、すべてではないが存在するのである。もしプレイヤーが、頭脳的な能力の維持という動機のためにゲームをするのなら、そのプレイヤーは恐らく、他のゲームよりも多くの頭脳的な課題を提供するゲームを、より好むだろう。ゲームに含まれる要素がプレイヤーの動機を満足させないとすれば、そのゲームは面白いはずがないのだ。さて、動機に含まれることのない、ふたつの好みの要因は、ゲーム性および感覚的満足感である。

ゲーム性

 ゲーム性 (Game play) は、とりわけアクションゲームにおいて決定的な要素である。この用語は数年にわたって使われてきたが、その意味について明確な意見の一致を見ることはなかった。ゲーム性はプレイヤーのインタラクティブ性に関係し、優れたゲーム性がゲームの成功に欠くことができないということについては、皆が同意するところである。しかしながら、その意味のニュアンスは幅広く、まさに十人十色だ。ゲーム性という用語は、そのあいまい性のために、記述的な価値を失っているわけである。そこで私は、ゲーム性という用語の、より正確で、限定された、そして(私が望むに)いっそう有用な意味を提案する。ゲーム性という捉え難い特徴は、ゲームのテンポと、必要とされる認識力の結合から生ずるものである。『テンペスト』 (TEMPEST) のようなゲームは、非常に速いテンポで進行する。他方、『バトルゾーン』 (BATTLEZONE) のようなゲームは、はるかにゆっくりしたテンポで進行する。この相違にもかかわらず、両者とも優れたゲーム性を持ったゲームである。なぜなら、それぞれがゲームの要求する認識力に対して適切なテンポを持っているからである。『テンペスト』は『バトルゾーン』よりも、必要とする計画性や概念化がはるかに少ない。プレイヤーに要求されるものは単純で直接的であり、その代わりテンポが速い。『バトルゾーン』の場合は、より多くの認識力をプレイヤーに要求するが、その代わりテンポが遅い。ゆえに両者は、テンポが非常に異なっているにもかかわらず、おおむね同等のゲーム性を持っているといえる。テンポと認識力が結合し、ゲーム性をもたらすのである。

感覚的満足感

 感覚的満足感は、もうひとつの重要な好みの要因である。優秀なグラフィックやアニメーション、サウンドといったものはすべて、ゲームプレイヤーを引きつける。それらは、ゲームの現実感の「証拠」を提供することによって、空想を補助するのである。映画の特殊効果においても、同様の現象を見ることができる。映画は、優秀な特殊効果を駆使して、刺激的な面白さを演出する。我々を宇宙戦争のさなかに放り出し、未知の不思議な生き物に会わせ、はるか遠くまで連れて行ってくれる。我々が見るものは、空想世界を信ずるに足るほど真に迫って見えるため、我々は(主観的には)空想世界が真実であると認識する。同様の過程がゲームにも適用できる。特殊効果、グラフィック、サウンド、アニメーション。これらの要素はすべて、良いゲームとそうでないゲームを区別するための要因となりうる。しかしながらその役割を混同してはならない。感覚的満足感はあくまで補助機能であり、中心的な特徴ではない。感覚的演出はゲームあるいは映画によって作られた空想の効果を高めるが、素晴らしいグラフィックやサウンドが、それだけで成果を上げるわけではないのである。空想世界抜きの映画は、奇麗な映像コレクションに過ぎないのだし、空想世界抜きのゲームは、奇麗な映像コレクションがインタラクティブ的になっただけに他ならない。

個別の嗜好

 これまでのところ、動機と好みについて、それが個々のプレイヤーから独立している絶対量であるかのように論じてきた。しかし実際は、特定のゲームに対する反応は、個々のプレイヤーの性格に著しく依存する。このような性格の相違を、我々はどのように扱えば良いのだろうか?

 この問題に対するひとつの理論的な回答は、ゲームの嗜好を決定する莫大な数の性格の特徴の存在を仮定することである。次に、ゲームの特徴についても同様に仮定し、それと合わせて、ゲームの心理的プロフィールを完全に定義する。そして、万能の「性格計量器」を使って、個人の性格の特徴をすべて測定した上で、同じく強力な「ゲーム計量器」を使って、問題のゲームのすべての特徴を洗い出す。最後に、性格の特徴とゲームの特徴の間で行列演算を行うのである。いつの日か、太陽が赤色巨星になってしまう前には、我々の化け物コンピュータが、その人がそのゲームをどれくらい楽しむことができるかを、数値にして答えてくれることだろう。

 このアプローチは差し当たり、思考実験の領域から出ることはないだろう。個別の相違に対処できる、もっと簡単な方法を考えなくてはならない。ひとつの方法は、ゲームプレイヤーのグループを観察して分類し、それぞれのグループに高く評価されたゲームを識別することである。この方法は、ゲーム産業の若さゆえに困難である。我々はいま、広範囲であいまいで、しかも部分的に重なっている、少数のグループしか識別することができない。アクションゲームの支持者、D&Dの支持者、戦略ゲームの支持者というように。ゲームのジャンルは他にもあるが、これ以上細かくしたところで、プレイヤーのグループを定義するための役には立ちそうにない。時間が経ち、研究が進めばきっと、もっと多くの有用な情報が手に入るはずである。

 個々のゲームに対する嗜好は、不変のものではなく、人間が成長し、変化するにつれて、その嗜好も同じく変化していく。音楽に喩えることで、この点を説明しよう。

 子どもの頃は、皆、いろいろな形で音楽を聴かされる。だが、嗜好がまだ不完全な状態であるため、音楽からの影響はわずかしか受けることがない。簡単な歌に合わせて歌ったり踊ったりはするものの、音楽の表現している感情を十分に理解できているわけではない。音楽のパワーは、我々の持っている、音楽的表現を感情と結び付ける能力から生ずるのである。この連想能力を身につけるまでには何年も必要とする。それは経験の中で徐々に作られていくものだからである。私と同世代の人々にとって、最初に深い感銘を受けた音楽は、60年代のロックンロールだった。激しいビートや、簡素な主題、短い音符といったものは、青春期の素朴な知性に容易に染み込んでいった。我々はこの音楽を理解することができたのだ。さらに、音楽を聴いて楽しむという行為は、学習経験そのものだった。音楽的経験が拡大していくにつれ、音楽のより複雑な構成要素を学び、いっそう広い範囲の連想能力を身につけた。まもなく我々は、それまでの訓練されていない耳では理解できなかった音楽を理解し、正当に評価することができるようになった。ロックはこの成熟を反映して変化し、あるものはロックに留まり、他の人たちは、ジャズやカントリー、フォークなどに移っていった。私も、他の人たちと同じように、一連のステージの中で、ロックからクラシックに移った。私が進化の道をたどったように、ひとつのステージで学んだことが、次のステージの材料を理解することを可能にしたのである。他の人たちは、各自が最も気に入った音楽表現の分野を探求して学び、彼ら自身の道をたどった。共通しているのは、選んだ方向にかかわらず、音楽的な嗜好が進展したということである。ロックは、我々すべてが共有した広い土台であり、入り口であり、多くの分岐を発生させるがらくた、宝の山だった。

 ちょうどロックンロールが音楽の入り口だったように、アクションゲームがゲームの入り口となる。初期のロックンロールと同じように、アクションゲームには幅広い魅力があり、理解することが容易である。そして、人々がゲームに慣れていくにつれて、彼らの嗜好は枝別れしていくだろう。ロックンロールと同じように、アクションゲームもまた消えることはない。それは大衆の進化する嗜好を反映して、変化していく。すでにこの現象は起こっている。初期のアーケードゲームは、最近のシューティングゲームなどと比較すれば、飼い慣らされた猫のようにおとなしい。もし『テンペスト』が1977年にリリースされていたら、その難易度はプレイヤーを脅えさせ、受け入れられなかったはずである。時代が変われば、人々も変わる。アクションゲームはいつでも存在し、常に新しいプレイヤーの入り口となるだろう。しかし大衆はそれをずっと遊び続けることはない。多くの人々が、ゲームの他のエリアを探求し始めることだろう。

 人々がゲームをする理由はさまざまである。この章で、私はそれらの動機の種類について簡単に触れた。この問題に対する私の分析は、薄っぺらで不確かなものであって、説得力は強くない。人間は複雑な生物であり、ゲームをする人間の動機を完全に理解することは決してできないだろう。だとしても我々は、その重要性を無視することはできない。少なくとも、コンピュータゲームを芸術として極めていくためには、そのことを理解しておく必要がある。


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