第四章 ゲーム環境としてのコンピュータ


ゲーム環境
コンピュータ
コンピュータゲームデザインの六つの鉄則
 鉄則1:適材適所
 鉄則2:ちょいと拝借でいいの?
 鉄則3:まずは使い勝手
 鉄則4:シンプルが一番
 鉄則5:少なく貯めて大きく使おう
 鉄則6:二足のわらじをはけ
結論

ゲーム環境

 すべての芸術表現には、何らかの素材が必用になる。素材の取り扱いに習熟しない限り、芸術家はその作品で自己表現をすることはできない。彫刻家は、自分が使おうとする素材、たとえば、大理石、真鍮、その他もろもろが何に向いていて何に向いていないかを知っていなくてはならない。画家は、筆の使い方や光がどう振舞うのかを理解している。音楽家は、どうすれば良い音が出るのかを知っている。コンピュータゲームデザイナーも、素材、コンピュータについて良く理解していなくてはならない。コンピュータは、ゲームをデザインする上で素晴らしい可能性を与えてくれるが、一方ではコンピュータを使うがゆえの新たな負担も生じてくる。この章では、コンピュータゲームをデザインする上での可能性と問題点について論じていこう。まずは、いくつか簡単な例をあげて、コンピュータゲームの本質を明らかにしていきたい。

 トランプは、非常に単純なゲーム環境のひとつである。環境を構成する素材は、非常にシンプルなものである。裏側には全く同じ模様が、そして表側には一枚一枚別々の模様が印刷された52枚のカード、それがトランプである。その特徴は以下のように表すことができるだろう。

1) 枚数が多い。
2) 個々のカードは互いに異なっている。
3) カードには数字が振られている。
4) カードは4種類のスートに分かれている。
5) 裏表を選ぶことで、何のカードであるかを隠すことも表示することもできる。
6) セットで販売されており、すべてのカードを一人で所有することが容易である。

 以上の六つがトランプの本質であり、すべてのトランプゲームはこれを基本としてデザインされている。すべての特徴がトランプゲームのデザインに深く関わっている。トランプで実現しやすいゲームもあれば、実現しにくいものもあるだろう。たとえば、確率が絡んでくるようなゲームは、トランプに向いている。トランプは2値(数字とスート)を持っているから、これを組み合わせれば、まさに無数の確率の組み合わせが実現できる。カードの裏面から得られる情報は非常に限られているから、当て推量や直感を働かせるようなゲームも作りやすい。事実、直感が重要なゲームの代表ともいえるポーカーでは、面白みのない確率論ではなく、相手のカードが隠されているという点がゲームの本質となっている。

 さまざまな他のゲーム環境と同じく、トランプにも欠点がある。たとえば、52枚のカードしかないのに、参加者が52人以上いるようなゲームをデザインするのは難儀である。トランプを使ったアクションゲームとか、体を使うゲームをデザインするのも無理がある。たとえそのようなゲームがデザインできたとしても、それが素晴らしいものになるとはとても思えない。

 もちろん、これはトランプがゲームに向いていないということを意味しているわけではない。トランプでできることもあれば、できないこともあるというだけの話である。ボードゲームは、トランプよりもより多彩なゲームが作りやすい。ボードゲームは、カードよりももっと複雑な要素をゲームに盛り込めるから、その特徴をトランプほどすっきりと定義することはできない。ボードゲームとはこのようなものだという説明はできても、厳密な定義にまでは至らないのである。ボードゲームでは、何らかの模様が描かれた大きな紙やゲーム板を使う。その模様は簡略化された何らかの地図を表していることが多い。多くの場合、その地図は、(四角形なり六角形なりの)規則正しいマス目、こまかく区切られた道、不定形の領域、分岐点といったものでさまざまな領域に分割されている。普通、地図そのものはゲームの間には変化しない。プレイヤーはその地図の上を動かすことができるいくつかのマーカーを操ることで状況を変化させていく。偶然の要素を表すために、ランダムな状況を作り出す装置が使われることも多い。ルーレットやサイコロが良く使われる。ランダム性を作り出すために専用のカードが使われることもある。

 ボードゲームというゲーム環境は非常にうまくいっていた。さまざまな嗜好を持つプレイヤーたちに合わせたゲームをデザインするのも簡単で、非常に広範囲のゲームをデザインすることが可能である。チェスは古典的で不朽というべきボードゲームだし、パーカーブラザーズ (Parker Brothers) の 『モノポリー』 (MONOPOLY) は、不動産売買を扱った素晴らしいボードゲームである。その他にも、人生、殺人事件の推理、レースといったさまざまなテーマを扱った、数多くのボードゲームが存在する。いま現在、最も大がかりなボードゲームは、ウォーゲームだろう。中には1.5m四方もあるボードを何枚も使うような巨大なゲームも存在する。動かすコマは数千個にのぼり、50ページに及ぶルールブックが付属している。ここまでくると、ゲームを作るのもちょっとした事業になる。歴史的な調査が行われ、スターデザイナーたちが集まり、連中にしか理解できないような言葉で打ち合わせが行われるだろう。

 このように、ボードゲームというゲーム環境は非常に自由度が高い。しかしながら近年、多少停滞気味のようである。数こそ多く出てはいるが、皆『モノポリー』の安易なコピーになってしまっている。ウォーゲームも60年代、70年代にブームを迎えて以来、すっかり停滞してしまった。本当の意味で新しいものは、ほとんど出てきていない。もはや、このボードゲームという鉱脈は掘り尽くされてしまったのかもしれない。

 ボードゲームの欠点といったら何だろうか。第一に、誰か特定のプレイヤーだけに固有の情報を与え続けることが難しいということがあげられるだろう。それぞれのコマがゲームボード上でどこにあるのかは、すべてのプレイヤーから一目瞭然なのだ。第二に、細々としたコマをひとつずつ、プレイヤーたちの手で動かさなくてはならないということである。これは、前に例にあげたようなモンスター級ウォーゲームなどでは特に、相当面倒くさいことになる。そのようなわけで、ボードゲームは1ゲームが長引きやすく、一晩がそれだけで終わってしまうことも多い。1ゲームが20分以下で終わるような、短いボードゲームは極めてまれである。さらに、誰かがボードをひっくり返してしまったら、コマが目茶苦茶になってゲームが成立しなくなってしまうという問題もある。

 ここまでの議論では、すべてのゲームは何らかのゲーム環境のもとでデザインされており、そのゲーム環境にはそれぞれ固有の利点と欠点があるということを述べてきた。ゲーム環境にはそれぞれ、得意、不得意があるのである。目端のきくゲームデザイナーになろうと思ったら、使おうとするゲーム環境の利点と欠点をしっかりと把握していなければならない。では、ゲーム環境としてのコンピュータとはいかなるものであるかを見ていこう。

コンピュータ

 コンピュータをゲームに使えるようになり、最も大きく変わった点は、コンピュータはプレイヤーの打つ手に対応できるということだろう。こちらの動作に対応してくれるというのは、コンピュータとプレイヤーの相互作用の中で最も重要なことであり、すべてのゲームにおいて重要な意味を持つ。コンピュータは、プレイヤーの希望をさまざまな方法で満たしてくれる。たまに、カードゲームやボードゲームで膠着状態に陥ってしまい、続けるのがいやになってしまうことがあるが、人間同士のプレイでは、いつまでもその苦行を続けるか、いっそやけくその大攻勢にでるかくらいの選択肢しかない。コンピュータ相手であれば、一気に時間を進めてしまえば良いのだ。ゲームの所要時間、難易度、ルールですら変えることができる。『アタリ2600』 (ATARI 2600) 用の『スペースインベーダー』(SPACE INVADERS)が良い例となるだろう。プレイヤーが一人か二人か、透明のインベーダーを出現させるかどうか、要塞が動くかどうか、弾のスピード等々、本当にさまざまな設定が変更できる。要するに、プレイヤーがルールを決めることができるのである。これは、コンピュータゲームがプレイヤーの希望を細かく反映できるということに他ならない。

 これは、コンピュータの自由度が非常に高いところから来ている。コンピュータはその設定を動的に変化させることができる。すなわち、ゲームから固定要素を排除することができるのだ。ボードゲームやカードゲーム、あるいは、スポーツにしろ、それをデザインする上で何らかの固定要素はどうしても必要だった。10万枚のゲームボードが刷り上がってきたあとで、マップに調整を入れようとしてもちょっと難しいだろう。作れと言われても、53枚セットのトランプを作ることはできない。よほどの技術的進歩がなければ、より遠くまで飛ぶフットボールは作れないし、スタジアムの拡張には巨万の富が必要だ。そのようなものと比べたら、コンピュータは制限なしも同様だろう。すべてのパラメーターをゲームプレイ中に自由に書き換えることもできる。フットボールゲームで、敵軍のゴールポストを遠ざけてやることだって簡単だ。ウォーゲームで自軍の占領地を広げてやることは、リビングルームのイスの場所を変えることより簡単だろう。このような自由度は、ゲームをデザインする上で最も重要なことである。しかしながら、これまでのところ、このコンピュータの自由度がうまく活かされているといえるようなゲームはあまりない。

 コンピュータをゲーム環境として考えたとき、次にあげるべきはゲームにおけるレフリーとしての働きだろう。従来のゲーム環境では、誰かがゲームを管理することに時間を割く必要があった。スポーツはその最たるものである。厳格にルールを適用し、ルール解釈の違いによるもめ事を採決するために、複数の公平な審判員が必要になる場合もある。トランプやボードゲームにおいても、プレイヤー自身がレフリーの役を果たす必要がある。レフリーはトランプにおいてはそうでもないが、ボードゲームでは結構大変だ。ウォーゲームのような複雑なゲームではなおさらだろう。複雑なルールをいいかげんに解釈したことがもとで、いさかいが起こり、ゲームそのものが成立しなくなる場合もある。コンピュータを導入すれば、こういった厄介ごとはですべて解決される。プレイヤーがゲームに集中することが可能になるのだ。さらに、大きな利点がある。複雑な計算が入るようなややこしいルールが導入できるということだ。従来のゲーム環境では、プレイヤーの管理能力を越えてしまうため、それほど複雑な計算をルールに含めることはできなかった。コンピュータにはそのような制限は存在しない。

 たとえば、『東部戦線1941』 (EASTERN FRONT 1941) のオリジナルヴァージョンにおいて、私は非常に複雑な計算式を使うことができた。これまでの第二次世界大戦の東部戦線を扱ったゲームでは、勝利点を評価するために、占領された都市の数と後はせいぜい互いに与えあった被害の量、程度しか使われてこなかった。これ以上のややこしい計算は人の手にあまるからである。しかし、『東部戦線1941』のオリジナルヴァージョンでは、占領地や被害の多寡だけでなく、個々のドイツ軍ユニットがどれだけ西進したか、個々のロシア軍ユニットがどれだけ東進したかということまで計算にいれることができた。これにより、ゲームはより現実的になり、プレイヤーの力量を明瞭に示すようになったのである。

 ゲーム環境としてのコンピュータにおける三つめの利点は、リアルタイム処理が可能だということである。その他のゲーム環境では、何か判定すべきことが出てくるたびに、いったんゲームの進行を止める必要がある。コンピュータは、人間の判断よりもずっと高速にさまざまな判定をくだすことができる。リアルタイムゲームが可能なのだ。アクションゲームはその一番の例だろう。コンピュータの高速性を生かすことで、カードゲームやボードゲームにおいてすらターン制を採用せずにリアルタイム処理を行っているものも出てきた。

 ゲーム環境としてのコンピュータにおける四つ目の利点は、コンピュータに知性的な対戦相手を演じさせることが可能になったということである。その他のゲーム環境では、どうしても生身の対戦相手が必要になる(トランプのソリティアのような例外もあるにはあるが、これはゲームよりもパズルに分類すべきものだろう)。この面で、いまのところ、最大の成功というのは、コンピュータにチェスを指させることが可能になったことだろう。パソコン用のチェスプログラムはたいていの素人チェスプレイヤーには勝てるくらいにはなっている。ゲームにおける最高の人工知能といえるだろう。チェス以外のゲームはそこまで知的なゲームだとはいえないが、それでも人間の持つ知性のかわりに強力な計算力を使って対戦相手を演じることができる。近い将来、もっと手強い敵を演じられるようなアルゴリズムが作り出されるのを期待しよう。

 ゲーム環境としてのコンピュータにおける五つ目の利点は、プレイヤーから特定の情報を隠しておくことが容易だということである。これは、非常に重要な利点となりうる。情報を隠すことでプレイヤーに推理力を使わせることができるのだ。推理はもともと非常に面白い挑戦になりうる。1から10までのランダムな数字をあてることはそれほど面白いことではないが、相手の行動や性格を観察して対戦相手がいま何を狙っているのかを推理することは、はるかに面白い。非常に複雑で限定された情報から何かを推理するのは、プレイヤーにとって本当に面白いことなのである。

 プレイヤーに提供する情報を制限できるということは、別の重要な利点にもなりうる。さきにも述べたように、ゲームは現実世界の非現実的な再現であり、それにリアリティを与えるためにはプレイヤーが自らの想像力を駆使させる必用がある。与えられる情報が制限されていることで、かえって想像力を刺激することができるのである。必要な情報がすべて与えられていれば、推理の働く余地はほとんどない。ほんの取っ掛かりだけが知らされているからこそ、そこにしがみつこうとして、ありったけの想像力がかきたてられるのである。ゲームが再現しようとしているものの中で、リアリティほど重要なものがあるだろうか。ゲーム内の情報をあえて制限することで、想像力を刺激し、ゲームで表現された事象を現実社会としっかりと結びつけるのだ。その過程の中で、このゲームはリアルであるという幻想が生まれ、より効果的に空想世界への道を開くのである。

 ゲーム環境としてのコンピュータにおける六つ目の利点は、たとえば電話回線といったネットワークを通じてデータのやりとりができるということである。ネットワークが使えることでその他のゲーム環境では全く手の届かなかったようなゲームが可能となる。たとえば、とんでもない数のプレイヤーが同時に参加するようなゲームだ。これまでは、管理上の問題からゲームに参加するプレイヤーの数には必ず限度があった。専門のレフリーを置かないゲームでは、プレイヤー数は6人程度が限界だろう。プレイヤーが12人にもなれば、レフリーも一人では足りなくなるし、20人を越えればもっとたくさんのレフリーが必要になってくる。したがって、プレイヤーが何百人もいるようなゲームは、どうしても、いかにそれを管理するかという問題に直面するのである。加えて、どうやってそれだけの人数を集めるかという問題も、ゲームの開催を困難にする。これらすべての問題は、ネットワークに繋がったコンピュータを利用することによって解決できる。ネットワークを用いることで、世界中に散らばった何千人ものプレイヤーが互いに相互作用しあうようなゲームをデザインすることも可能だ。プレイヤーはやりたいときに自由にゲームに参加し、抜け出すことができる。全参加者の数が十分大きければ、特定の個人の出入りはゲームの大勢に影響を与えないのである。

 その他のゲーム環境と同じく、コンピュータも利点だけでなく欠点も持っている。第一にあげるべき最大の欠点は、たいていのコンピュータはインターフェースが非常に貧弱だということである。コンピュータは、それ自身は非常に高速である。しかし、プレイヤーが自分のしたいことをコンピュータに告げられなかったり、コンピュータのいっていることを理解できなかったりすれば、そのスピードは全く無駄になってしまう。換言すれば、コンピュータは何とかしてプレイヤーと意思疎通する必要があるのである。これを実現するインターフェースは非常に難しい。現状のコンピュータからの出力はほとんどの場合、グラフィックとサウンドであり、入力は、キーボードやジョイスティック、パドルといったものを使うしかない。

 コンピュータからの出力としてまずあげるべきはグラフィックだろう。高品質のグラフィック環境は、まだなかなか手に入らない。パソコンレベルでは世界一のグラフィックをうたうアタリ (the Atari Home Computer System) ですら、ゲームをデザインする上では厳しい制約がある。自分が描きたいと思う細かな画面をそのまま表現することさえできない。たとえば、このコンピュータ上に一画面で表示できるボードゲームがどれだけあるだろう。使える色数にしろ、高解像度モード上に表示できるテキストの行数にしろ、ゲームボードの大きさを考えると、とてつもなく大変なことだとわかる。ボードを塗る色数を減らし、文字数を削り、画面よりも大きなボードをスクロール表示するなど、ありとあらゆるテクニックを使ってはじめて、同じようなゲームボードが再現できるのだ。『東部戦線1941』では、こういった手法をすべて使った。その結果は、もちろん有益だっただろう。しかし、コンピュータ上でグラフィックを使うのは一筋縄ではいかないのである。

 もちろん、コンピュータのグラフィックにしかできない利点というものもある。コンピュータゲームでよく見られるような、アニメーションを使ったり、ボードそのものが変化していったりするようなボードゲームは見たことがない。また、グラフィックがあるというだけで、人が受けるインパクトは非常に大きくなるのも間違いない。グラフィックがすべて悪いということはないのだ。

 入出力に関するもうひとつの問題点は、もちろん入力である。コンピュータへの入力はいまのところキーボードか何か他のコントローラーを使わなくてはならない。これは、ゲームデザイナーにとって頭の痛い問題である。第一に、ジョイスティックにしろキーボードにしろそうそう多くの情報を一度に入力できるわけではない。ジョイスティックから入力できるのはたかだか五つ、「上」、「下」、「右」、「左」、そして「ボタンが押された」という情報だけである。もちろん、キーボードならもっと複雑な入力が可能だが、それには長い間違えやすいキーシーケンスを打つ必要がある。コンピュータと何か実のある会話をしたいと思うなら、とにかく長くて不器用なコマンド列を間違いなく入力しなくてはならないのだ。キーボードにしろジョイスティックにしろ、入力方法としてはまわりくどくややこしい。そこには、現実世界のアクションと直接結びつけられるようなものはほとんどない。その他のゲーム環境では非常に簡単で明白な行動ですら、コンピュータ上で再現しようとするとまさに神秘のベールに包まれてしまうのである。バットを渡されて、「あのボールを打つことが野球の目的だ」と言われたら、「このバットをボールに向かって振ればいいんだな」ということはすぐにわかるだろう。ところが、コンピュータ上の野球ゲームではそう簡単にはいかない。一体どのキーを押したら良いのだろう。「ヒット」だから[H]? 「スイング」だから[S]? それとも「バット」の[B]だろうか? ジョイスティックのボタンを押せば良いのかもしれないし、スタートキーを押すのかもしれない。いっそのこと、ジョイスティックのケーブルをつかんで、画面に映っているボールめがけて振り回してみたらどうだ。

 ゲーム環境としてのコンピュータを考えたときに、入出力についで問題になるのは、コンピュータが基本的に一人用として作られているということである。普通、コンピュータは、コンピュータデスクに鎮座していて、それを使うときにはその前に座る必要がある。これを二人で使おうと思ったら、いちいち席を変わらなければいけない。まったく面倒でややこしいことだ。ジョイスティックやパドルを使えば多少は楽になるが、それで十分というわけでもない。そういうわけで一人用のゲームが増えて、コンピュータゲームは社会性を疎外するなどと非難されることになる。ボードゲームなら、友達を何人も呼んでテーブルを囲むことができるのに、コンピュータゲームになると普通は一人、せいぜい二人用で、それ以上人が集まるとどうしようもないというわけだ。

 ここで取り上げるゲーム環境としてのコンピュータにおける最後の欠点は、コンピュータゲームを作るにはどうしてもプログラムが必用だということである。デザイナーにここまで負担をかけるゲーム環境は他にはないだろう。たとえばボードゲームのデザインを考えてみよう。とりあえずは、ラフにゲームボードをスケッチして、コマを適当にでっち上げればそれでプレイは可能だ。いざ発売というときには、プロのグラフィックデザイナーにおまかせするだけで、きれいな商品に仕上げてくれるだろう。ゲームデザイナー自身が、きれいに絵が描ける必要はどこにもない。

 コンピュータゲームデザイナーはそうはいかない。ゲームをデザインするためにはどうしてもそれをプログラムしてコンピュータ上で動かしてやる必要がある。プログラミングはそれそのものが厄介で難しい。しかも、そう簡単に人に任せるわけにもいかない。なぜなら、プログラミングの努力自体が、コンピュータゲームのデザイン過程に大きな影響を及ぼすからだ。そのゲームをいかにプログラムするかというのは、コンピュータゲームデザイナーにとって非常に高いハードルなのである。

コンピュータゲームデザインの六つの鉄則

 ここまでに述べてきたような、ゲーム環境としてのコンピュータの利点や欠点をゲームデザイナーの卵たちへ伝える指針とするにはどうしたら良いだろう。ここでは、これらを六つの鉄則としてまとめてみよう。

鉄則1:適材適所

 いかにも頭が鈍そうなコミックのヒーロー。近くにはロケットが停泊している。すぐそばには、車輪のとれた乳母車。我らがヒーローは車輪ととんかちを手にして、乳母車からロケットへとえっちらおっちら歩いている……。

 第一の鉄則は、コンピュータという素材をうまく活かそうという意味である。非現実的な目標を立てるゲームデザイナーが多い。彼らは、コンピュータが苦手とすることをさせたがるのである。プログラミングで手抜きをしろという意味ではない。コンピュータはあくまで人間が使う道具であり、コンピュータの都合はデザイナーにとって重要ではないということを忘れてはいけないのだ。我々の目標は、コンピュータから最大のパフォーマンスを引き出してベストなものを作ることである。そのためには、コンピュータが得意なことをさせるしかない。

 この鉄則にあてはまる例をひとつあげておこう。ウォーゲームのプレイヤーは、昔から、六角形のマス目でしきられたゲームマップに慣れ親しんできた。このヘクスシステムは、コマの移動方法と位置をうまく表すことができる。ヘクスシステムは、単純な四角のマス目よりもいくつかの点で優れている。まず、四角いマス目には対角線上の位置関係が存在する。二個のユニットが互いに斜向かいの位置になれるのだ。ルールをデザインする上で、この斜向かいの位置関係というのは厄介である。たいていの場合、難しくて例外的なルールを作ることが必要になる。ヘクスシステムなら、どんな場合でも位置関係は等価であり、このような問題は起きない。次に、ヘクスシステムでは、六方向好きな方向にコマを動かすことができるのに対し、四角いマス目では四方にしか動けない。移動先の選択肢が多いということは、より細かなコマの移動が可能になるということなのである。

 こうして考えてみると、コンピュータウォーゲームにもヘクスシステムを持ち込もうとしたというのは、非常に自然な考え方といえる。ヘクスシステムを採用したコンピュータウォーゲームは非常に多い。しかし、それは大きな間違いなのだ。確かにヘクスシステムには利点も多い。しかし、コンピュータ上では、紙のボードゲームにはなかった問題が出てきたのである。紙の上になら何だって好きなものを印刷できるだろう。しかし、コンピュータディスプレイの解像度や色数ではそうはいかない。もともとコンピュータディスプレイの座標系は四角いのだ。水平方向の走査線を縦に積み重ねて表示しているのである。

 つまり、コンピュータディスプレイは、六角形を描くよりも四角を描くほうが得意なのだ。六角形を描くためには、斜め線を四本も引かなくてはいけない。ところが、ディスプレイ上にかかれた斜め線は、ガタガタの四角いドット列になってしまう。はっきりとわかる線(少なくとも1ピクセルの太さは必要だ)で区切られたヘクスシステムをディスプレイ上に再現してみよう。小さいヘクスを多数並べると、画面の大部分が線で埋まってしまうだろう。だからといってヘクスを大きくすれば、今度は一度に表示できる数が少なくなってしまう。さらに、ジョイスティックもヘクスシステムには向いていない。もともと、ジョイスティックは四方向の入力用の装置なのだから。もちろん、コンピュータゲームでヘクスシステムが使えないというわけではない。実際、ヘクスシステムを採用したコンピュータゲームは数多い。ただ、この問題によって、グラフィックが簡略化され、非常に使いにくいものになってしまっている。とても、スムーズに働いているとはいえないのである。ヘクスシステムと等価な利点を持ち、この問題を解決したシステムを採用したゲームもいくつか存在する。ヘクスの替りに、互い違いの四角形を採用したシステムである。このシステムでは、ヘクスシステムの利点を保ったまま、ディスプレイにとっても表示しやすくなっている。もっとも、ジョイスティックに向いてないという点は変わらないが……。

 以上のようなことを考えて、私は『東部戦線1941』では、あえて古臭い四角いマス目を採用した。もちろん、手抜きをしたかったとか、ヘクスシステムの問題点を解決するだけの気力がなかったというわけではない。実際、別のゲーム『タクティクス』 (TACTICS) では、ちゃんとヘクスシステムを使っているし、そのためのプログラムも書いた。しかしそれでも私はヘクスシステムのためのプログラムを書いているうちに、やはりそれはゲームにとって絶対に必要なものではないということを確信するに至った。事実、『東部戦線1941』はヒットし、ヘクスシステムを使っていないということは決してハンデには成らないということを証明している。

鉄則2:ちょいと拝借でいいの?

 おお、我らがヒーローは、崖からまっ逆さまに落ちていく。腕に間に合わせの翼をつけ、狂ったように打ち振りながら……。

 コンピュータゲームの世界には、胸が悪くなるほどたくさんの移植ゲームがある。もともと別のゲーム環境で作られたゲームを、何を勘違いしたのかコンピュータ上に生まれ変わらせたものである。いくら皆がやっていることだといっても、これが本質的に愚考であることは間違いない。彼らの言い分はこうだ。「コンピュータゲームはまだ生まれたばかりだ。コンピュータゲームをデザインするためのガイドラインが存在しない以上、既存のゲームのガイドラインをあてにするしかないだろう」と。いつの日か、ゲームデザイナーたちは、そんな安易な移植ゲームの山を見て笑う日が来ることだろう。大昔の羽ばたき飛行機の設計図をあざ笑うように。

 どうしてそこまで移植ゲームを忌み嫌うのかというと、移植ゲームは、ちっともその気のない二つのゲーム環境の間に生まれてしまった厄介者の私生児のようなものだからである。一番ひどい例をあげてみよう。コンピュータゲーム版のクラップスだ。ルールは、普通のクラップスと同じで、コンピュータが二個のダイスを振って結果を表示してくれる。確かにうまく動いている。しかし、なぜ他のゲーム環境で完成しているゲームをコンピュータで再現するために、わざわざ面倒くさいことをする必要があるのだろうか。ダイスを二個買うのだって一ドルもしない。コンピュータ・クラップスがオリジナルと比べて圧倒的に劣っている点がある。クラップスの売りのひとつは、プレイヤーが自分でダイスを振ることができるということだ。皆、ダイスを握り締め、「頼んだぜ、サイコロ君」とささやき、ときにはそれにキスして運が向いてくるのを願う。プレイヤーは皆、そうやって、ツキをコントロールできると信じている。それが、ただ見ているのではなく、ゲームに参加しているってことだろう。ところが、コンピュータ・クラップスにはそれがないのだ。確かに、ダイスを支配している数学は同じでも、プレイヤーに空想や幻影を与えることはできないのである。

 多かれ少なかれ、移植ゲームはオリジナルの何かを移植する過程で失ってしまう。たまに何かを得ることはあるが、必ず何かを失っているのである。なぜなら、別のゲーム環境で作られたゲームは、そのゲーム環境の中で最適化されてきたからだ。特定のゲーム環境下で、最も利点が多くなり、欠点が少ないように作られているのである。移植ゲームは、異なる利点と欠点を持つゲーム環境に、わざわざ同じゲームを再現しようとする。これでは、まずオリジナルに及ばないのは間違いないだろう。すべての印象的な芸術作品は、それに見合ったイメージ媒体で形作られている。シェイクスピア (Shakespeare) を本当に理解しようと思うなら、エリザベス一世の時代の英語 (Elizabethan English) で読まなければならない。現代英語に訳してしまえば、シェイクスピアの持つ華麗な言い回しや語感が失われてしまう。ギリシャ語のリズムで謡ってこそ聴衆をぞくぞくさせるソクラテス (Isocrates) の演説も、現代英語になっては、くすんで退屈なものになってしまうだろう。本を読んで感動したからといって、映画化されたものを見て満足したことがあっただろうか。この法則がコンピュータゲームに当てはまらないわけはない。他からちょいと拝借してきたところで、面白いゲームは作れないのである。

鉄則3:まずは使い勝手

 我らがヒーローは、ついに巨大な装置の前にたどりついた。とても複雑な装置のようだ。あちこちに、パイプやバルブ、煙突にケーブルが走っている。装置の正面には「選択してください」と書かれているぞ。そのすぐ下には「選択A」、「選択B」とかかれた二つのボタンがある。その隣には、「あなたの勝ち!」、「あなたの負け!」と書かれたランプが並んでいる……。

 これまでにも述べてきたように、コンピュータの計算力は非常に大きい、しかし、こと入出力となると貧弱としかいえない。すなわち、コンピュータゲームデザイナーにとっての当面の問題は、コンピュータの計算能力に関してではなく、I/Oまわりに関することになる。コンピュータと人間の情報のやりとりをどうするかが一番の問題なのだ。

 コンピュータからの情報が、ディスプレイやサウンドから自然と受け取れるようにデザインする必要がある。ゲームシステムそのものは素晴らしいのに、I/Oまわりがダメでどうしようもなくなったゲームを数多く見てきた。表示があまりに乱雑だと、せっかくきれいなグラフィックを作っても、プレイヤーには見てもらえない。もっとひどいのは入力がダメなゲームである。特に安易にキーボード入力を採用したものがひどい。キーボード入力となるとたじたじになってしまうゲーマーがほとんどだろう。もちろん、困難に挑戦することそのものが面白い場合もあるが、キーボード入力がうまくいかないのはイライラするだけだ。ゲームの大半はI/Oで決まってしまう。何が表示できて何が表示できないのか、何が入力できて何が入力できないのか、ゲームの仕様はこういうことで決定されるのである。

 I/Oまわりが仕様を決めた良い例として、私のデザインした二つのゲームをあげてみよう。『東部戦線1941』 と『タンクティクス』 (TANKTICS) はどちらも第二次世界大戦を扱ったゲームである。どちらのゲームも、結構手ごわい敵、細かなシミュレーション、多彩なオプション、やりがいのあるステージといったものを持っている。そういった点ではどちらもだいたい等価だ。両者の違いはI/Oにある。『東部戦線1941』では、I/Oを中心にゲームをデザインした。見やすくて十分な情報が得られる画面と、直感的にわかりやすいジョイスティックによる入力を採用している。一方、『タンクティクス』では、ゲームそのものがデザインの主眼となった。その結果、使いにくくてややこしいキーボード入力とまるで暗号のような画面ができあがった。『東部戦線1941』は、絶賛を持って迎えられいくつもの賞をとることになったが、一方『タンクティクス』は酷評されることになった。I/Oまわりの差がすべてを決めたのである。

鉄則4:シンプルが一番

 我らがヒーローは特注バイクを走らせている。全長6メートルのこのバイクの装備は、数え切れない。バックミラー、パワーステアリング、ブレーキにスロットル。もちろんシートやハンドルの高さ調整も自由自在だ。フロントガラスだけでなく、すべてのミラーにワイパー完備。テレビにハンバーガーの自販機まで、思いつく限りの装備がこのバイクにはついている……。

 ゲームをデザインするにあたって、いま作っているゲームを自分の理想に近づけようとして、かえって失敗するゲームデザイナーは数多い。何か問題が出てきたときに安易にその場しのぎの変更を加えてしまい、その結果、ゲームシステムがシンプルさを失ってしまうのだ。もし、良いゲームだとプレイヤーを感動させようとするなら、ゲームは芸術的なまでに統一性を保っていなくてはならない。それには、ゲームは表現しようとするテーマにそって作られており、気を散らすような枝葉が可能な限り排除してある必要がある。

 ここで、なぜ、ゲームのメインテーマとして複雑なものを持ってきてはいけないのかについて述べておこう。複雑さがゲームに悪影響を与えるということはほとんど認識されていない。なぜなら、適度な複雑さはゲームに彩りを加え、より現実味のあるものにしてくれるからである。適当な彩りはゲームを素晴らしいものにすることは間違いない。しかし、ゲームデザイナーは、その彩りを加えることでゲームがより複雑になっているという事実を知っていなければならない。その彩りは、度を越すと乱雑な印象へと変わる。デザイナーはできる限り彩りを増そうとするが、しばしば、加えた彩り以上に複雑なゲームを作ってしまう。ゲームデザイナーにとって、ゲームをどこまで複雑にするかというのは、常に考える必要のあるトレードオフであり、ちょっとした問題の解決のために安易に変更して良いものではない。

 複雑な処理は往々にして、めったに起きないような例外処理の場合にゲームに入ってくる。たとえば、『東部戦線1941』にも、さまざまな例外処理があり、ゲームを複雑なものにしている。なかでも一番ひどいのは、特定のフィンランド軍ユニットは攻撃に参加できないというルールだ。このルールが適用されるのは、2個のフィンランド軍ユニットにすぎないため、ゲーム全体にはほとんど影響がないが、それでもプレイヤーを悩ませるには十分である。このルールは、ゲームとプレイヤーを混乱させるだけでメリットはほとんどない(あるデザイン上の問題をクリアするためにどうしてもこのルールを入れなくてはならなかったのだ。フィンランド軍が自力でレニングラードを手に入れてしまうのを阻止するにはそれしかなかった)。

 枢軸国側(ルーマニア軍、ハンガリー軍、イタリア軍)のユニットに関しても、例外処理的なルールを採用した。それらのユニットは、ドイツ軍ユニットと比べると攻撃力が弱いのである。枢軸国ユニットは『東部戦線1941』中に6ユニット存在する。このルールは、2ユニットだけに関係するルールと比べれば使われることも多く、また、それほどゲームを複雑にしているわけでもない。また、機甲ユニットは歩兵ユニットよりも移動力が大きいというルールがあるが、このルールは、ゲーム中に登場する大量の機甲ユニットすべてに適用されるという点で、例外処理にはあたらない。これは、ゲームを無意味に複雑にするルールではないのだ。

 以上の考察から、そのルールの適用範囲が狭ければ狭いほど、ゲームは乱雑になっていくということができる。すなわち、ゲームを乱雑にしないためには、例外処理のためのルールを使わずに、ゲーム上で再現すべきすべての状況を表現できるようなシンプルなルール体系を構築しなくてはならないのである。もし、完全なゲームデザインというものがあるとしたら、すべてのルールはあらゆる状況に普遍的に適用される。もちろん、完璧なゲームが作れるはずもないが、デザイナーはすべてのルールがなるべく広い適用範囲を持っているように努力する必要がある。プレイヤーは、すべてのルールの関わり合いを考慮して、意思決定を行うのだから。

 中には、夢の島学派 ("humongous heap" school of game design) とでも呼んでやりたくなるようなゲームデザインをする連中がいる。彼らは、ゲームデザインというものは、単純な基本ルールの上に思いつく限りの枝葉末節(彼らはこれを称してディテールとか言っているらしいが)をめったやたらと積み重ねていくものだと考えている。ノミの代わりにシャベルを使っているようなものだ。彼らは、デカさと壮大さ、ややこしさと巧妙さの区別がついていないのである。

鉄則5:少なく貯めて大きく使おう

 我らがヒーローは街で大道芸を始めた。隣の男は、5、6個のボールをいとも簡単そうに操っている。おお、なんてことだ。我らがヒーローは、両手いっぱいのボールをお手玉しようとして結局それにつぶされてしまった……。

 コンピュータの情報記憶の役割は誤解されていることがある。コンピュータは単なる情報記憶装置ではなく、情報処理装置なのである。コンピュータの情報記憶は、あくまで情報処理のための前提条件に過ぎず、記憶するだけでは何にもならない。記憶容量がふえれば、処理すべき情報量も増加するが、コンピュータの処理能力はそれに追いつかないため結局は無駄になるだけである。理想的なプログラムでは、データの量と処理能力のバランスがとれている。それに対して、私が見てきた限りほとんどのゲームでは、扱う情報が多すぎて処理しきれていない。データ量を増やすほうが、プログラムを改善するよりも簡単だからだ。どうしても、安易に流れるデザイナーが多いのである。

 このように、膨大なデータ量を誇るゲームというのは、実は決してマシン性能を活かしきったゲームではないのである。コンピュータの性能をぎりぎりまで使い切ろうと思ったら、そのデータをいかに処理し、いかに動的に変化させていくかというところに力を注がなくてはならない。数値の変化しない数表などというものは、ルールブックに書いておけば良い。静的な情報を扱うことにおいては、紙とインクはいまだにコンピュータに勝るとも劣らないツールである。そこらに散らばっていてめったに使わないようなデータはさっさとゴミ箱に捨ててしまおう。コンピュータのメモリの中にはそんなものを置いておく余裕はないのだ。プログラムを見て考えよう。「この1バイトは金を貰うに値するだろうか? ちゃんと働いているのかな。たまにしか使われないような怠け者のデータじゃないだろうな」。プログラムの中には、怠け者のデータではなく、有用な働き者のコードを詰めこもう。

 怠け者のデータは、例外処理の中に出てくることが多い(安っぽいビリヤード場でぶらぶらしている不良のようなものだ)。例外処理はめったに適用されない特別なルールである。当然、そのルーチンが呼ばれることも少なく、怠け者のデータとなりやすい。

 この鉄則に従ったほうが良いもうひとつの理由は、ゲームをプレイする上での基本に関わっている。ゲームの醍醐味はやはりインタラクティブ性である。前にも述べたように、コンピュータは非常に柔軟で、その本質からしてインタラクティブである。しかし、コンピュータの持つインタラクティブ性は、プログラムしだいで容易に台無しになってしまう。静的な情報を重視したプログラムが動的になるはずはない。扱う情報が固定されてしまうと、当然ながら人間の入力に対する対応範囲が狭くなってしまい、インタラクティブ性を失う。一方、情報処理を重視したプログラムは、柔軟で入力に対する反応が良く、インタラクティブになる。そう、少なく貯めて大きく使うのである。

 最後にコンピュータに限らず、すべてのゲームに関わることがらについて述べておこう。第一章で、ゲームは練り上げられた一本道の物語というよりも、細かなストーリーの分岐からなる網の目のようなものであると定義したのを覚えているだろうか。物語の善し悪しは、そこに含まれている情報の量によるところが大きい。一本道の物語というのは、実は情報こそ多いが、そこに含まれる情報そのものは決して変化しないのである。それに対してゲームの善し悪しは、そこに含まれる分岐の数によって決まる。そして分岐こそゲーム中の情報を処理していくことに他ならないのである。データばかり多くて情報処理を怠ったゲームは、理想的なゲームというよりは、物語に近いものとなってしまうのだ。

鉄則6:二足のわらじをはけ

 我らがヒーローは、壁を跳び越えて牢獄から脱出しようと、棒高跳びに挑んでいる。彼の左手の手錠は、共に投獄された走り高跳びの選手につながれている。腕がからまって地に堕ちるのは明らかなのに、彼らの顔は成功への期待に満ちている……。

 ゲームを作るためにはデザインが必要であり、それをコンピュータ上に実現するためにはプログラミングの必要がある。ゲームデザインもプログラミングもなかなか習得できない技術であり、ましてや一人でその両方をこなせる人間など本当に数少ない。そのためたいていの場合、プログラムを知らない文系のゲームデザイナーと、芸術を知らない理系のプログラマーが組んで、開発チームを作ることになる。デザイナーとプログラマーがともに大人で、譲るべきところを譲りながら仕事を進めている間はうまくいくだろう。しかし、デザイナーとプログラマーの間には、ゲームを作る上で、血のにじむような選択をしなければならない場面があまりにも多い。デザインの専門家とプログラムの専門家にチームを組ませることは、棒高跳びの選手と走り高跳びの選手を手錠で繋いでおいて、あのバーを越えてみろというに等しい。悲惨な対立が起こるのは避けがたいのだ。

 端的に言えば、デザイナーとプログラマー組んだチームが破綻しやすいのは、デザイナーがプログラミングについて無知なため、過度の期待をプログラマーにかけるからである。例をあげよう。私は『エナジー・ツァー』 (ENERGY CZAR : エネルギー経済を扱ったシミュレーションゲーム) のデザインにおいて、あえてプレイヤーの行動記録を残さなかった。もちろん、記録があったほうが良いに決まっている。プロジェクトの最終段階で、ほとんどのスタッフがその点を指摘した。しかし、記録を残すためには、どうしても余分なメモリが必要になる。プログラミングを知らないデザイナーはそういった仕様にこだわって、プログラムを肥大化させ、必要メモリをあふれさせてしまうのだ。

 『東部戦線1941』ではどうだったか。ゲームに使うカレンダーをコーディングしている間に、ここで何バイトか使えばカラーパレットを月ごとに変化させることができることに気付いた。この手を使って、画面上の木々の色を月ごとに変えることができた。ゲームを大きく進化させたとはいわないが、たった24バイトでこれだけのことができたのである。コストパフォーマンスは最高だといって良いだろう。プログラミングを知らないデザイナーには、こんなアイデアは浮かばないだろうし、もちろん、芸術を知らないプログラマーにだって無理だろう。

 簡単に素晴らしいゲームを作る方法などというものはない。まずは、人間的な感覚と芸術的なセンスを持った、よきデザイナーを見つけなくてはならない。そして次に、その人にプログラミングの技術を教えるのだ。その逆(プログラマーからデザイナーへ)はうまくいかないと思われる。プログラマーを育てることはできるが、芸術家は生まれつきだからだ。プログラムを熟知したデザイナーさえいれば、あとは手足として働いてくれるプログラマーとデザイナーを個々に雇うことで、彼女の創造力を思う存分発揮させることができるだろう。雇われたプログラマーやデザイナーにも良い経験となるに違いない。いずれにせよ、本当に創造的な部分は独りで考えなくてはならない。いくら人を集めても、官僚的になり、意思決定が遅れて対応を悪くするだけで、創造的な作業には全く役に立たないのである。

結論

 この章では、ゲーム環境としてのコンピュータについて述べてきた。コンピュータやそれが社会に与える影響についての議論は、肯定派と否定派の間の対立を生んできた。肯定派は、コンピュータにバラ色の未来を夢見て、コンピュータが生み出す無限の勝利について、あらゆる点で好ましいと語る。否定派は、コンピュータは人間性を奪う時間の無駄、いつかは人間を裏切る物としてすら見ている。この章では、私はコンピュータを単なるテクノロジーとして論じようとした。そう、とんかちと釘、土と石、紙とインクのような単なる道具、環境として。すべての道具や環境と同じく、コンピュータにはできることとできないことがある。芸術家がすべきことは、それが持つ欠点を巧みに回避して、利点を最大限に生かすために努力することなのである。


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