クロフォードのゲームデザイン論
−コンピュータゲームは芸術たりうるか−


目次


Web版の編集にあたって

 このテキストはもともと、1982年にコンピュータゲームデザイナーのクリス・クロフォード氏 (Chris Crawford) によって執筆されたものです。1997年にスー・ピーボディ教授 (Prof. Sue Peabody) は、ゲームと物語が本質的にどう関わり合っているのかという研究のために文献を探すうちに、この『クロフォードのゲームデザイン論 −コンピュータゲームは芸術たりうるか−』 (The Art of Computer Game Design) という、絶版のため長く入手困難となっていた本を発見しました。そこで、スー・ピーボディ教授は、彼女の講座の学生やゲームデザインに興味を持っている人たちのために、この本を電子化してWeb上で公開する許可をクロフォード氏に対して願い出、受け入れられました。また、ワシントン州立大学バンクーバー校 (Washington State University Vancouver) の好意により、イラストレーターのドナ・ローパー (Donna Loper) の協力を得ることができました。現在、このサイトはワシントン州立大学バンクーバー校 (WSUV) のサーバー上に置かれて管理されています。

 このサイトに関する感想等は、ワシントン州立大学バンクーバー校 歴史学課 スー・ピーボディ教授 <peabody*at*vancouver.wsu.edu> までお願いします。

 クリス・クロフォード氏の最近のコメントに興味をお持ちの方は、巻末のクロフォード氏へのインタビューをご覧ください。また、氏のWebサイト Erasmatazz を訪れてみるのも良いでしょう。

 また、Acrobat形式のテキストがここに置かれています。


日本語版の編集にあたって

 日本語版は、クリス・クロフォード氏の許可のもと、*at*nifty RPGフォーラム (FRPG) の有志によって翻訳、作成されたものです。日本語訳等に関するご意見は、代表のShino <shinoaki*at*a2.mbn.or.jp> までお願いします。

 なお、第七章「コンピュータゲームの未来」に関しては、クロフォード氏が語る未来を現実(2000年)がすでに追い越してしまっているため、あえて翻訳していません。もし、氏の予言の成否に興味があって自分で訳されたという方がいらっしゃいましたらご一報下さい(^^ゞ

日本語版作成スタッフ

翻訳

Shino <shinoaki*at*a2.mbn.or.jp>
OJ <oj*at*v7.com>

協力(敬称略 ABC順)

Genich! <SDI00769*at*nifty.ne.jp>
Infrared <JBD04156*at*nifty.ne.jp>
JSTAK <SDI00659*at*nifty.ne.jp>
The SiNner <QZF07402*at*nifty.ne.jp>
タナック <KGG02762*at*nifty.ne.jp>
西上 柾 <QYM03433*at*nifty.ne.jp>

著者紹介

 アタリゲームズ社でいくつかのシミュレーションゲームのデザインに関わった後、アタリ社の倒産とともに独立フリーのデザイナーとなる。コンピュータゲーム学会 (Computer Game Developers Conference) の創設者としても知られ、いくつかの大学でゲームデザイン論を教えている。

 代表作にMac版のシミュレーションゲーム『バランス・オブ・パワー』 (Balance of Power : 1986年作品) がある。米ソ冷戦時代の外交を扱ったこのゲームでは、プレイヤーは米国の大統領(またはソ連の書記長)となり、両者の間に起こるさまざまな事件に関する折衝を行う。弱気になれば自陣営が衰退し、かといって強気に出すぎると全面核戦争が勃発しゲームオーバーというそのバランスは、まさに冷戦を再現したゲームとして話題を呼んだ。

参考


謝辞

 この本を書くにあたり、詳細かつ惜しみない批評を与えて頂いたマドリン・M・グロス嬢 (Madeleine M. Gross) に深く感謝いたします。彼女は多くの場合において、私の原案に対して私以上に一生懸命に厳しい批評を加えてくれました。ともすれば誇張となりがちな私の表現を引き締め、論理基盤をより厳密なものとしてくれたのは彼女の努力の賜物です。この本の論理が首尾一貫し、信頼できるものになったとすれば、それは彼女のおかげでしょう。また、妙な論理的飛躍が残っていたとすれば、それはすべて私の責任であります。

序文

 この本は「コンピュータゲームは斬新な、しかしながら未熟な芸術の一形態をなしており、それはゲームデザイナー、プレイヤー両者にとって大きな可能性を秘めている」という前提のもとに構成されている。

 この前提は、あまりに不遜であり嘲笑の対象となるべきように思えるかもしれない。いったい誰が、『スペースインベーダー』 (SPACE INVADERS) や『パックマン』 (PAC-MAN) を芸術だなどといえるだろう。『テンペスト』 (TEMPEST) や『ミサイル・コマンド』 (MISSILE COMMAND) を、ベートーヴェン (Beethoven) の『交響曲第五番』 (Fifth Symphony) や ミケランジェロ (Michelangelo) の名作『ピエタ』 (Pieta) 、ヘミングウェイ (Hemingway) の小説『武器よさらば』 (A Farewell To Arms) と同列に比較する者などいるだろうか。コンピュータゲームは芸術と呼ぶにはあまりに矮小でくだらない。せいぜい、時間潰しのお遊びといったところだろう。懐疑論者はそう言う。

 しかしながら、コンピュータゲームの現状を見て、一過性のポップカルチャーとして汚物だめに放り込むのは早計だろう。コンピュータゲームは、まだあまりにも若く、あまりにも急速に変化を続けている。そう簡単に、コンピュータゲームを見捨ててしまってはならないのだ。現状ではなく可能性を見なくてはならない。結論を出す前に、コンピュータゲームの本質とは何かということを考えなくてはならない。そうすることで、コンピュータゲームが、他の一過性の流行のように、時と変化の中で朽ち果ててしまわないようにするための道を見いだすことができるだろう。

 芸術にはさまざまな定義があるが、芸術論について不慣れな初心者がそのまま理解できるようなわかりやすい定義はほとんどない。ここでは、私なりの定義をあげておこう。芸術とは、イメージを通して感動を呼び起こそうとするものである。芸術家は、観客の知覚にさまざまな経験を与えることで、彼らと芸術家が一般に共有しているイメージを刺激する。それが感動を生むのだ。芸術が存在するのは、あくまで我々人類が共有しているイメージが豊富であるためなのである。にもかかわらず、何かが芸術となることは困難である。なぜなら、人の心の奥深くに沈むイメージを呼び起こすことを疎外する多くの問題があるからである。ひとつに、観客の注意を引いて芸術への参加意識をもたせることが難しいことがあげられる。観客の直接参加が可能な芸術はほとんどない。観客に許されているのは音楽家が演奏する音楽をただ静かに座って聞くことや、美術館を歩き回って他人が作った絵画や彫像を眺めること、じっと座って小説や詩を読むことだけなのだ。いずれの場合も観客の立場は受動的なものである。芸術家がその感情の最大限を投資して、すべての能動的な行動を行い、観客はただじっとそれを鑑賞することですべての利益を得ることを期待されている。観客の能動的な参加は極めて限られている。そして、参加意識がなければ、観客の集中力は徐々に減退し、いつしか感動も消えていってしまうのである。

 これまでの芸術家たちが作り上げてきた芸術を批判しようという気はさらさらないが、従来の芸術で使われてきた技術そのものが観客の参加を拒んでいるのである。音楽を演奏中のオーケストラピットへ飛び込んだり、オペラのステージへ駆け上がったり、はてはピカソ (Picasso) の名画に絵の具をぶちまけたりすれば、確かにドンチャン騒ぎに参加していることにはなるだろうが、それはもはや芸術ではない。芸術家たちがどんなに自らの作品に関して語っても、観客が参加意識を持てないために耳を貸そうとしないというのは、芸術に課せられた呪いということができるだろう。

 話をコンピュータに戻そう。コンピュータ、考える機械という発想そのものは非常に古い。それは、数々の戦争の中で産声をあげ、ビジネスに利用されることで成長してきた。そしていま、このまだ幼い技術は、コンピュータルームの中からショッピングセンター、ピザ・パーラーそして各家庭へとその居場所を広げてきている。コンピュータのイメージそのものも、全知全能、冷血な巨大計算機というイメージから、100円玉ひとつでビデオ映画並みのスリルを与えてくれるものというように変わってきている。生まれたばかりのころは、数字をばりばり処理するだけの機械だったのに、グラフィックとサウンドを処理する能力を得て、まったく違ったものとなったのである。グラフィックとサウンドの処理が可能になったことで、コンピュータは非常に強力な利点を持つことになった。従来の冷たくわかりにくい数字の羅列ではなく、直接人間の情感に訴えることのできる表現方法を身につけたのだ。これにより、以前には想像もしなかったような可能性が出てきた。コンピュータを、人間の感情に働きかける芸術の媒体として考えることが可能になったのである。コンピュータゲームは、芸術の媒体としてのコンピュータの利用法の先導者として現れたのだ。コンピュータゲームは、私の定義のもとでは芸術の一形態である。なぜなら、それはゲームをプレイする観客に、感動を呼び起こす仮想体験を与えるのだから。

 残念なことに、いまのパソコンレベルではオーケストラや映画並みの臨場感を与えることはできない。しかしながら、この欠点を補って余りある利点がコンピュータゲームには存在する。ゲームは本質的に観客自身が参加するものなのである。芸術家は従来の芸術に比べ、より繊細で間接的な道具を手に入れたのだ。従来の芸術では、芸術家は自らの手で直接、観客に披露する体験を作り出す。それは、非常に精密に計画、実行され、観客はその進行を乱すことを許されない。つまり、本当の意味でそれに参加することはできないのだ。しかし、ゲームでは芸術家が作るものは、体験そのものではなく、観客たちが自ら体験するための環境とルールなのである。芸術家に要求されるものは、以前の芸術と比べても多大である。なぜなら、彼/彼女らは観客に与えようとする体験を間接的に設計しなくてはならず、体験に参加する観客のすべてのアクションとリアクションを計算に入れておかなくてはならないからだ。もちろん、見返りももっと大きい。実際に参加することで、その体験が与える感動はますます大きくなるのだから。誰かの芸術を受動的に鑑賞しているときには、そこからわずかばかりの感動を引き出しているだけなのに対し、実際にゲームに参加することで、自意識の一部をその仮想体験の中に送り込むことができるのである。臨場感が大きくなるのと比例して、そこから受ける感動も大きなものとなる。実際、アマチュアの芸術家たちと一緒に芸術に参加しているときのほうが、プロの芸術をただ眺めているときよりも感動が深いではないか。すなわち、ゲームは本質的に参加型であるために、それを利用する芸術家たちがより観客に近づくことを可能にしたのである。

 いまのところ、ゲーム一般、特にコンピュータゲームはそれほど印象深い芸術形態にはなっていない。コンピュータゲームはまだまだ幼稚な代物である。これは表現の手段としてのコンピュータゲームが、芸術家ではなく技術者の手にあったからである。彼ら(男性代名詞を使ったが、プログラマーのほとんどが男性であることに文句をつける人はいないだろう)にとっては、美しいOS、プログラム言語、リンカといった技術的に優れたものを作り出すことが第一で、芸術的なセンスなどというものは二の次だったのだから。

 それに加えて、市場が立ち後れていることも、現在のコンピュータゲームがぱっとしない理由である。コンピュータはまだ一般の人々にとって目新しいものであり、ゲームを供給する側もこれほど急速に発展しつつあるものを、一般の人々に押しつけることにためらいを覚えているのだ。そのために我々デザイナーは、冒険をさけ、つまらない、観客にこそこそとささやいてありきたりの感動をよびさまそうとするようなゲームを作るようになってしまっている。本当は、強烈な感情を呼び覚ますような状況、すなわち、パトス、エクスタシー、荘厳なイメージ、狂喜、カタルシス、悲劇といったものこそ、いますぐゲームの題材として取り扱うべきなのだ。我々が作っているのは芸術ではなくエンターテイメントなのだという言い訳は、芸術をその大本から誤解している者たちにしか通用しない。確かに、パリッと糊のきいた服を着ているエリート主義の者たちからも芸術は生まれることがあるが、大衆たちが足を踏み鳴らすリズムが素晴らしい芸術となることもあるのだ。芸術を研究している者たちは、えてしてエリート主義になりがちだが、芸術のインパクトは感情に素直になるところから生まれるのである。

 幸か不幸か、時は激しく流れている。すでにあちこちでコンピュータゲームに対する反動勢力が現れてきているのがわかるだろう。たとえば、アーケードゲーム機の設置場所に対する規制などというのもそうだし、ゲームに夢中になっている子どもたちを厳しく叱る両親などというのもそのひとつだ。こういった批判は、ゲーム業界の小心者たちには悩みの種となっているし、もっと先が見える連中すら、ゲームを守ろうという立場には立たずに、むしろ興味深く成り行きを見守っているだけだ。ゲームを弾圧しようとしているアメリカ国民は、われわれゲーム業界の者たちに何かを伝えようとしているのだ。そう、とても大切な何かを。それは彼らにとって、人の仕事を邪魔しようとしているという汚名を浴びるに足るほど、大切なことなのだ。学校の崩壊、不良集団の発生といった話題が公開の場にあがるたびに、彼らのゲームに関する嫌悪感、ゲームは時間の浪費であるという漠然とした印象が、どこからとなく表面に現れてくる。いつまでも、彼らをだまし続けているわけにはいかない。彼らは、すでに気付き始めている。ゲームは未開で不毛なものであるということに。

 コンピュータゲームは、キャンディやマンガ、アニメのようなものだ。これらは皆強い刺激を与える。砂糖を加えたり、感嘆符を使ったり、大爆発を起こしたりするのは、すべて強い刺激を与えるためである。子どもたちはあらゆる面において新鮮味を感じる力が強いために、そういった誇張された表現を楽しむことができる。一方、長い間にそんな刺激に飽き飽きした大人たちは、もっと巧妙で奥深いものを好む。子どもにとってのキャンディ、マンガ、アニメといったものは、豪華な料理のフルコース、ずらりと並んだ文学、超大作の映画などに取って代わられた。しかし、コンピュータゲームの代わりになるものはまだ生まれていない。そう、ゲームデザインを洗練させていくことで、この穴を埋めることができるかもしれないのだ。

 コンピュータゲームを芸術たらしめようという、いま起きつつあるこの大変革には、実は近年の急速な技術革新はまったく関係ない。いまの技術革新の速度を考えれば、もはやハードウェア上の限界からやりたいことができないということはなくなっていくと思われる。真の問題点は、我々がゲームを芸術たらしめる上で、いったいどこに力を注ぐべきなのかということに関して、ほとんど考察したことがないということなのだ。ゲームとは何なのか、人はなぜゲームをするのか、いったい何が素晴らしいゲームを作るのか……。こういった根源的な命題に関して、我々は本当は何もわかっていない。ゲームを通して芸術を表現することは不可能ではないはずである。しかしそれは、ゲームの本質を理解することなくして、決して達成することはできないだろう。我々は、ゲームに関する審美眼を磨き上げ、評価基準を選定し、ゲームデザインのモデルを作り上げなくてはならない。ハードウェアの進歩は確かにゲームを進化させてくれる。だからといってそれがゲームを芸術にしてくれるわけではないのだ。いくらオーケストラを揃えたってベートーヴェンが生まれてくるとは限らないように。コンピュータゲームがシェークスピア (Shakespeare) の戯曲やチャイコフスキー (Tchaikowsky) の交響曲、ファン・ゴッホ (Van Gogh) の自画像と肩を並べて比較しうるようになるまでには、はるか長い道のりが必要だろう。これらの芸術は、はるか昔から数々の先人たちが切り開いてきた遺産の上に成り立っている。我々、コンピュータゲームデザイナーも、後に続く者たちのために少しでも道を開いておかなくてはならない。この本は、そのために書かれたのだ。


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